header
説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2023年11月19日(聖霊降臨後第25主日) 

タラントンのたとえ

マタイによる福音書25章14-30
 

 

 先週の55に分離された「10人のおとめ」のたとえに続き、いつか突然訪れる世の終わり、すなわちキリストの再臨に向かって「目を覚ましている」ことでした。きょうは最終的に神の目から見て何が「良し」とされるのか、ということが問われています。

 この「タラントン」のたとえは明らかに、突然訪れる世の終わりまで、待つということから働くことを勧められています。主が来られるまで、わたしたちが「どのように生きるべきか」を問いかけています。

 きょうの「タラントン」のたとえで、人それぞれに与えられるものが違っていることを、どう考えたらよいのでしょうか。「それぞれの力に応じて、一人には5タラントン、一人には2タラントン、もう一人には1タラントン」というところを読んでみると力に応じて適正に判断してくださっています。しかし、与えられている人によって量が違うので「神様は不公平だ」と感じる人がいるかも知れません。まさに、このタラントンのたとえは、一方ではすべての面で恵まれている人がいて、もう一方には恵まれない人がいる、と感じるでしょう。ここではこの人間的な見方と神さまの俯瞰的な見方の違いを際立たせようとしているのではないでしょうか。

 1タラントンは6,000デナリに換算できます。1デナリが1日の日当だと言われますから、1タラントンは、約20年分の賃金ということになります。1タラントンというのは、たいへん高額な金額です。また「1タラントン」は「1ムナ」の60倍であるということも考えれば、「タラントン」のたとえは、神から与えられたものの大きさ・豊かさを強調していると言えるかも知れません。

 三番目の僕の態度は、実に用心深いですね。「穴を掘り、主人の金を隠しておいた」というのは、当時の考えでは最も安全な財産の保管方法だったそうです。一方「銀行に入れておけば」利子が得られるというのは、地に埋めるよりもリスクがあったそうです。

 余談ですが、銀行という語句に近代的なイメージを感じましたが、岩波訳では両替屋と訳しています。確かに日本でも銀行のような金融業者は古くからありました。江戸時代に発達した両替商です。淀屋橋の住友銀行の本店に行きますと「両替商」という看板が刻まれていました。

 もっと遡れば、「土倉」がありました。鎌倉時代にお寺や神社が営んでいた金融業でした。では、この周辺地域では紀元前3000年前に遡ると言われています。バビロニアという古代王朝では、神殿で人々の財産を保管したり、穀物や家畜を貸し付けていたそうです。古代エジプトでもあったそうですがすでに為替取引もおこなわれていたようです。銀行のことを英語でバンクと言いますが、これは12世紀ごろ、商業の栄えていた北イタリアの両替商が使っていた「長机」バンコが語源だと言われています。銀行という呼称が明治になってから英語のバンクの翻訳のとき、お金の「金、銀を」から店を現わす漢語の「行」を合成させて、「金行」「銀行」語呂の良さから銀子と呼ぶようになったそうです。

 この譬えの結末を見てみますと、主人の望んでいるのは、安全にタラントンを保管することではありませんでした。預けた者を生かして用いて欲しいということだったのです。しかし、1タラントン「預けられた」しもべは、委ねられたものの大きさに気づかなかったようです。3番目のしもべは用心深い人だったのでしょう。いきなり「あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていました」(24)というのは、他の二人と比べて、彼が「自分にはたった1タラントンしか預けられなかった」と感じていたのでしょうか。また、恐怖のあまり、脅迫されているとして受け止めて、主人に対する信頼がなかったことです。聞き方によって、こうも違ってしまいました。

 1タラントンという額は決して小さくありません。主人との関係の中でどれほど大きなものを預けられているか気づきませんでした。「怠け者の悪いしもべだ」という叱責を受けました。神との関係で神に信頼を置くのではなく、人と比較してしまったのです。他者ではなく、神に信頼して、自分に預けられたタラントンをどう用いるかが神の目から見て大切なことです。 

 さて、この「タラントン」とは何を指しているのでしょうか「10人のおとめ」のたとえの中の「油」と同じように、この箇所の中にタラントンの説明はありません。主が来られるまで、世の終わりまで天の国のためにタラントンを活用して働くことです。「忠実な良い僕だ」は、「お金に忠実」ではなく、マタイにとって「良い」とは「主人に忠実」であることです。「少しのもの」というのは最終的に神から与えられる計り知れない恵みと比較しての表現です。

 「主人と一緒に喜ぶ」よいうのは、直訳すれば「あなたの主人の喜びの中に入る」ことです。神の喜びがわたしたちの喜びとなるように、わたしたちは招かれているのです。

 きょうの使徒書のテサロニケの信徒への手紙Tの55節に

 「あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。わたしたちは夜にも暗闇には属していません。従って、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいきましょう。(中略)わたしたちは昼に属していますから、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいきましょう。神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いに与るために定められたのです。」

 わたしたちは、この世にあって主がこられるまで働くことは、それぞれのタラントに応じて、その人なりに働くことです。



このページトップ」へ戻る