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説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2023年11月12日(聖霊降臨後第24主日) 

10人のおとめのたとえ-ともし火を灯し続ける

マタイによる福音書25章1-13
 

 

 イエスの活動を知らせる主日のA年の日課も余すところ3回になりました。イエスの最後の説教になるマタイ251-13節、14-29節、31-46節と25章を3回に分けて順次読まれていきます。この三つの福音の内容はいずれも終末についての教えになっています。イエスは神殿でユダヤ教の指導者たちと対決した後、243節でイエスはオリーブ山に登りエルサレムの街が一望できるところに立ち、そこからエルサレムの街と神殿を見ながら、弟子たちに対して終末についての説教をします。24章の教えと25章全体の譬えを伝えています。 

 神とイスラエルの関係が、キリストと教会の関係に移し替えられ、教会は花婿であるキリストを喜び迎える花嫁にたとえられていきます。

 このたとえでは教会は10人のおとめにたとえられています。10人の乙女の「灯火」は婚宴での踊りなどを照らすための松明のことです。

 棒の先に布を巻き付け、それに油を染み込ませたもので、少々の風では消えないようですが、燃焼時間は15分ほどなので、途中で油を補給する必要がありました。

 10人のおとめのうち、5人は愚かで、5人は賢いおとめでしたが、その違いの基準は何でしょうか?全員ともし火を持っていましたし、5節には、賢い者も含めて全員が「眠っていた」とありますので、眠っていたことが問題ではないようです。油の用意をしていたか、どうかが、愚かさと賢さとの分かれ目になります。当時のユダヤの習慣では、婚宴は誰もが参加できるように、夕方から始まるのが普通だったようです。婚宴に先立ち、花婿は花嫁を迎えるために、友人たちと行列を作り、花嫁の家に向かいます。

 6節では真夜中に突然「花婿だ、迎えにでなさい」という叫びによって、花婿の到来は思いもかけぬ時に起こることが強調されています。花婿の到着を知らせる叫び声があったとき、眠っていたおとめたちは皆起き上がり、自分たちの「それぞれの灯火を整えた」(7節)のでした。このたとえが、予期しない時に終末的な裁きが起こることを教えています。

 おとめたちは起き上がり、「自分たちの灯火」から燃えかすを取り除き、再び燃えるようにと油をつぎたします。「愚かなおとめ」も「賢いおとめ」も灯火を「整える」までの習慣では同じですが、灯火が消えかかっているのに気づいたとき、両者の差は歴然とします。油の用意を怠った「愚かなおとめ」は分けてくださいという願いを、「分けてあげるほどありません」と断られ、店に走らねばならない羽目に陥ります。

 「愚かなおとめ」が油を買いに出ている間に、花婿が来て戸が閉じられてしまいます。油を「用意している」5人は婚宴の席に入り、「残った」おとめたちは「主よ、主よ、わたしたちのも開けてくださいと懇願しますが、「私はあなたがたを知らない」と断られてしまいます。こうして、10人のおとめの間にはっきりとした「分離」が生じました。この「分離」をもたらしたのは「油」です。

 このたとえが語っているのは、自分の灯火を燃やし続けるための油は自分が用意しなければならないということであります。花婿の到来(キリストの再臨)に向かって用意すべきものは「油」です。マタイ5 16節に「あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるためである」とありますから、マタイにとって「灯火」は「善い行い」を意味していると思われます。あなたがたが善い行いを行う力は神から来ます。だからこそ、人々はあなたがたではなく神をあがめます。あなたがたの善い行いは神との交わりの中で行われます。そこには神の業を見つめ続けさせる聖霊が与えられています。

 1 テサ5:19に「霊の火を消してはなりませんとあります。そうであるなら、灯火をともし続けるための「油」は聖霊を指しているのでしょう。油は、神が与える聖霊であり、善い行いであるから、それは他人から分けてもらうことはできません。それは与えられたその人自身が保ち続けなければならないものだからであります。油が切れかかったなら神様から補給していただかなければなりません。

 初代教会・マタイ共同体にとって、最も深刻な問題は、終末遅延でした。彼らはイエス・キリストの再臨と究極的な救いの実現を熱望していました。そして、それは、当時起こっている、また引き続き迫ってくる困難に耐えてきました。それはこの苦難は長く続かないと考えて迫害を耐え忍んできたからです。

 しかし、終末がなかなか来ない、実現しないと感じ始めたとき、問題は、信仰の本質にかかわるものになります。彼らの歴史観は破綻します。やがて、倫理的緊張は薄れ、失望と放縦が増してきました。終末が来ないなら何をしても良いのではないか自由ではないかという人びとが目立ち始めました。

 2448に「しかし、それが悪い僕で、主人は遅いと思い、仲間を殴りはじめ、酒飲みどもと一緒に食べたり飲んだりしている」と彼ら信徒の生活の緩みの実態が記されています。人々は、まだまだ終末は来ないのだから大丈夫と緩み始めるのです。2000年前も終末に対する緊張感が薄れ、クリスチャンの風紀が乱れたような現実が今も、人類が好き勝手なことをして、争う日々が続いています。  今に生きるわたしたちにも天地創造の神が御独り子を世に遣わされ、この世を愛してくださいました。十字架によって救いの業を完成されました。このことを思い出して、わたしたちの神に委ねて、聖霊なる神に支えられて、日々主を待ち望み、感謝をもって歩んでいきましょう。



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