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説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2023年11月5日(聖霊降臨後第23主日) 

福音書の概要

マタイによる福音書23章1-12
 

 

・「モーセの座」は会堂(シナゴーグ)に作られた、飾りの付いた石製の椅子。聖書の巻物を納めた契約の箱に隣接した壇上に、会衆席と向かい合って置かれていた。ファリサイ派は 70年のエルサレム陥落後も生きた延びた唯一のユダヤ教宗派であり、70年以降この「モーセの座」に着いた人たちである。

 律法学者は古代王政国家の「書記」や「法務官」にあたる職務を果たしていた。律法学者の任務は律法研究、年の教育、律法に基づいた裁定である。優れた律法学者は学生たちの教師として活動し、最高法院の判事の座にも着いていた(マタ2:4、使4:5)。

・「ファリサイ派」イエス時代のユダヤ教には、ファリサイ派、サドカイ派、エッセネ派があった。ファリサイ派は 福音書にもたびたび登場し、イエスと律法の解釈をめぐって論争している。彼らは、荒れ野でモーセを通して与えられた律法を、時代を経た社会の中でも実践するために律法の解釈を重視していた。ファリサイ派は古くからの律法解釈を口伝の律法として重視し、書かれた律法と同等に扱った。

・サドカイ派は口伝の律法を尊重せず、モーセ五書の権威を重んじた。祭司貴族階級を中心とするサドカイ派は現状維持といった保守的な姿勢が強く、書かれた掟と現実生活との間のズレの存在を認めなかった。

・エッセネ派は福音書には登場しないが、世俗化した神殿祭司を批判し、信仰生活を守るために荒れ野での生活を選んだ。洗礼者ヨハネも荒れ野で活動した。律法学者とファリサイ派の現実は、「彼らの業に従っておこなうな」と命じられるように、厳しく批判される。「モーセの座」は指導者層の権威を象徴するものであるが、今この座に着いているファリサイ派たちの権威は偽りであることを明らかにし、真の権威の在り方をイエスは教える。

人々に見られるためにおこなう(3b―7

「彼ら自身は彼らの指でそれらを動かすことを望まない」律法学者は知識を駆使して、人間が行うべき振る舞いを細かく説明する。しかし、彼らの教えは あまりに細かく、数も多すぎて、人々には「背負いきれない重荷」同然である。しかも、彼らは「彼らの指で」それを動かそうとはしない。ここでは、他人を手助けしない彼らの怠慢が批判されているのではなく、自ら実行しようとしない不忠実さが批判されている。彼らは実行することを「望まない」から、人々の苦しみが理解できない。彼らの興味は学識であって、人々の救いにはない。

「経札」(聖句の入った小箱)小箱には、出エジプト 131-10節、などが書きつけられた小さな羊皮紙の札が納められている。

日ごとの祈りに際して、この小箱は、皮紐で左腕上膊部内側と前頭部に結び付けられた。

・「衣服の房」長方形の上衣の四隅に淡いブルーか白色の房を付けることは、民数記 15 37節以下と申命記 22 12節が命じている習慣。マタイ9 20節と 14 36節によれば、イエスもこの習慣に従っていたと見られる

「ラビ」文字通りには、「私の偉大な方」の意味。一世紀末頃に、パレスチナの律法教師の尊称として使 われるようになり、元来の意味を失うことになった。

呼ばれてはならない(8-11節)

 「だがあなたがたは」 名声を追って、神への道からそれてしまった律法学者やファリサイ派を反面教師として(2-7節)、キリスト者は共同体の中でどのように振る舞うべきかが教えられる。

「父と呼んではならないあなたがたの」神の国の使信の地平に立てば、精神的には家族から解放され、神へと完全に向かうことになる。兄弟姉妹としてキリストと一つになるとき、共同体は父の保護のもとにある。共同体は父による「世帯」であり、父に身を任せている。

自身を低くする( 12節)

「自身を低くする者は誰でも高められるだろう」 キリスト者が務めを果たすときに、踏まえるべき根本原則が語られる(マタ18:4)。



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