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説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2023年10月29日(諸聖徒日) 

聖徒の交わり

マタイによる福音書5章1-12
 

 

 殉教者や聖人を記念する日は、時代や地方によって様々でしたが、西方教会では、609513日に、教皇ポニファティウス4世が殉教者の聖遺物をカタコンペからローマのパンテオンに移し、それを礼拝堂として聖別しました。そこからこの日を諸聖徒の記念として祝うことが始まりました。しかし、英国やアイルランドでは8世紀半ばごろに111日に諸聖人の日を祝う習慣が守られ、それがローマに逆輸入されたようです。と吉田主教の『特祷想望』に書かれています。

 日本聖公会では、この諸聖徒日、諸魂日に、この世での命を終え、天に召された方々を記念する礼拝をささげます。 天の全会衆とともに神をあがめ、その祈りと交わりのなかで、わたしたちも救いの望みを確かにします。

 諸聖徒日の福音書には、マタイは5:1-12節、あるいはルカ6:20-26節が選ばれています。マタイ5章はA年の顕現後第4主日に読まれました。そのときルカの平地の説教と比較しながらマタイの特徴についてメッセージしました。きょうはマタイによる福音書から語ってみたいと思います。

 諸聖徒日の使徒書で朗読されるヨハネの黙示録7章では「天上の礼拝」が描かれています。その礼拝の中で白い衣を着て、手になつめやしの枝をもった人々は、「救いは神と小羊とのものである」と叫びます。また天使たちは皆、玉座の前にひれ伏して神を礼拝しました。白い衣を着て、なつめやしの枝を手にもった人々は御子イエスによって「罪と大きな苦難」から解放されました。

 きょうの福音書はイエスによる説教の一部ですが、その中でイエスは、神の国に招かれ、教えを説き、神に従う人々のあるべき姿とその目指すべき生き方を教えています。マタイ福音書の5章で8つの「幸い」が語られます。

 山上の説教は、さまざまな場面でイエスの語られた言葉がつなぎ合わされて今の形になったと考えられています。3-10節は、真の幸福をもたらす8つの手がかりを述べています。

 マタイ5章は構造的に見てみますと3-6節と7-10節で二つのまとまりになっています。また、11-12節は文体がかわり、散文的になっています。だからのちに付加されたものと思われます。

 マタイ 53 心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。4 悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。 

 5 柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。 

 6 義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。

 マタイ53 心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。マタイは「天の国」と表現しています。

 マタイは「心」の貧しいものは幸いであると述べています。「心の」貧しいと訳されている「心」は直訳では「霊」のことです。霊において貧しいのは、神の前に救いを求めて立つということでしょう。詩編37では、「主に望みをおく人」と「貧しい人」は同義語のように捉えられています。

 マタイの6節「義に」飢え「渇く」人々は、幸いである、その人たちは満たされる。神によって人間(民)に命じられたことで飢え渇くごとく神を必死に追い求めることです。

 きょうの日課のあとの13節以下でキリスト者の生き方が示されています。ここでは展開しませんが指針としてお読みください。

 マタイは、悲しむ人とは、罪を悲しむのか、また愛する人を亡くしたから悲しいのか、人生には悲しいことが多種多様にあります。ただここでは、神にだけにしか希望を持つことができない人の悲しみと捉えられます。「その人たちは慰められる。」からです。

 55 柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。このマタイの「柔和」は詩編3711節からの引用です。「柔和な人は地を受け継ぎ//豊かな平和に恵まれる。これは貧しいので神の前に低く、へりくだっている状態」を意味する言葉であったそうです。

 新共同訳聖書で、詩編のこの箇所は「貧しい人は地を継ぎ」と訳されています。

 「貧しい人」「悲しんでいる人」「飢え渇いている人」がなぜ幸いなのでしょうか。それは「神の国があなたがたのもの」だからです。神は決してあなたがたを見捨てていない、神はあなたがたを救ってくださるから幸いなのです。

 マタイの後半の4つの幸いは、貧しいだけでなく、その中でもっと前向きに生きようとする人々の姿を表しています。それは「憐れみ深い」「心の清い」「平和を実現する」「義のために迫害される」という生き方です。「8つの幸い」というマタイの形は全体としては、単なる祝福ではなく、その祝福の中を生きるとは、どういうことかをも示しているのです。

 キリスト者の生き方とは「迫害の中にあっても正義を貫いて生きる人たちに深い共感を抱いて心寄せる生き方であり、イエス様ご自身もまさにそのような生き方だ、と言えるでしょう。

 —使徒書のコロサイ1節に「さて、あなたがたは、キリストとともに復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものを求め地上のものに心を惹かれないようにしなさい。あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから愛を身に付けなさい。キリストの平和があなた方の心を支配するように、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。と述べています。キリストの死と復活に預かって信者となった「選ばれた」人には、他者を愛する愛を身に着け、キリストの結ばれた新しい生き方が求められています。キリストのみ跡を踏んで、「神と人とに仕えて」生きることができるようにと祈ります。



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