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説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2023年10月15日(聖霊降誕後第20主日) 

婚礼の礼服

マタイによる福音書22章1-14
 

 

 聖霊降臨後第17主日の「二人の息子」のたとえ(マタイ2128-32)は、神の救いがイエスの先駆けとしての洗礼者ヨハネによって告げ知らされていました。先週の第18主日の「ぶどう園と農夫」のたとえ(マタイ2133-43)は、神の救いがイエスの死と復活によって、実現したことを語っています。そのイエスが救いを完成させるために再臨する日がやってきます。きょうの福音も神殿の境内で、当時のユダヤ人の指導者やファリサイ派の人々に、イエスの再臨の日を「王子の婚宴として」語られたたとえ話です。

 マタイでは、エルサレム神殿の崩壊の時代までを視野に入れて、イエスの言葉を真剣に聞こうとしないで、日常生活に埋没して自分の計画や自己都合を優先させて行動する人たちに対して、彼らを批判するために語られたものと言えるでしょう。天の国は、どのようなものかたとえを用いて語られました。

 「ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。」と語り始めました。

 「婚宴」は聖書の中で、神と人とが一つに結ばれる救済のイメージとして語られますが、マタイは特に、この点を強調しています。

 王は、婚宴の招待のために二度、家来たちを送ります。彼らは祝宴への招待を伝えますが、来ませんでした。

 最初の家来たちは明らかに旧約の預言者たちです。二度目に家来たちは、牛や肥えた家畜を屠って、祝宴が整ったことを告げますが、無視されてしまいます。一人は畑に、一人は商売に出かけ、また他の人々はただ拒否するだけでなく遣わされた「家来を捕まえて乱暴し、殺して」しまいます。そして、怒った王は「軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った」という展開になっています。マタイは、紀元70年に起こったユダヤ戦争によってエルサレムが滅亡したことを、キリストを受け入れなかったユダヤ人に対する神の罰のように見ているのでしょうか。

 王は招いた人々は相応しくなかったので、町の大通りに出て、見かけたものはだれでも婚宴に連れてきなさい。と家来たちに命じました。

 そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆、集めて来たのです」(9-10)。だから婚宴は客でいっぱいになっています。

 マタイによる福音書の1324-30節に、良い麦と毒麦が混ざっている譬えを語られています。また、「天国は、良い種を自分の畑にまいておいた人のようなものである。人々が眠っている間に敵がきて、麦の中に毒麦をまいて立ち去りました。 芽がはえ出て実を結ぶと、同時に毒麦もあらわれてきました。 僕たちがきて、家の主人に言いました、『ご主人様、畑に、おまきになったのは良い種ではありませんでしたか。どうして毒麦がはえてきたのですか』。主人は『それは敵のしわざだ』と、言いました。『では行って、それを抜き集めましょうか』。と僕たちが言いました。『いや、毒麦を集めようとして、麦も一緒に抜くかも知れない。

 収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。

 収穫の時になったら、刈る者に、まず毒麦を集めて束にして焼き、麦の方は集めて倉に入れるように、言いつけました。良い麦も毒麦も混ざっているままにして、裁きを神に委ねることが語られています。

 婚礼の話に戻りますと、町の大通りからたまたまそれも急に連れてこられ人々が「礼服を着ていない」といって主人に責められるのはどう考えても理不尽です。一説によりますと主人が貸し与えたものを着ていなかったからだと言われています。

 それでも礼服を身に着けていない人を攻撃する王の意図について深くその意味を考えてみますと、「罪びとも招かれている」ということは素晴らしいことです。そして花婿である王子の登場をまっている善人も悪人も入り混じっている人々の姿は、死んで復活したイエスが再び来るのを待つマタイの信仰共同体の姿を表していると言えるでしょう。

 この人々の集まりには、婚礼の礼服を着ていない人は相応しくないのは、婚礼の礼服を着ていない人も食事の良さに気づきました。普段頂けないような食事なのに、礼服を着ない彼は、誰が招いた婚宴であるか知ることができませんでした。

 教会には、善人も悪人も多くいます。悪人は排除されませんが「婚礼の服」を着ていない人は、すなわち神に招かれていることに気づかない人は、外の闇へ投げ出されます。わたしたちひとり一人が神に招かれ、神が示される道を歩いています。

 神はわたしたちに憐れみをかけてくださいます。神がわたしたちに期待することはただ食事の席につながることではありません。神が誰であるかと知って、宴席につながることです。礼服は神を知った者の姿を表しています。信仰共同体を神が招いているのです。このわたしのような神から離れる罪びとをも神は愛してくださいます。この神の心に応えて生きることが、今、問われています。

 最後に招かれる人は多いが、選ばれる人が少ない。と言われています。

 わたしたちは、神から与えられた礼服を身に着けて、すなわち神に呼ばれていることに気づき、み言葉を聴き、み言葉に養われ、み言葉に聞き従い、その愛に応答していきましょう。日々生活がイエスに従って、歩んで行きたいと思います。



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