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説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2023年10月8日(聖霊降誕後第19主日) 

一神のもたらされた救いに生きる

マタイによる福音書21章33-43
 

 

 きょうの福音の「ぶどう園と農夫」のたとえを語っています。

 このたとえ話は、並行記事として、共観福音書のマルコ121-11節とルカ209-18節にもあります。他の福音書に比べてみますと、共感福音書共通しているのは、この息子が「ぶどう園の外」で殺されていることです。それは、イエスが当時エルサレムの城壁の外にあったゴルゴタの丘で処刑されたことを意味しているようです。

 33節に、「ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て」これを農夫たちに貸して、旅に出ます。

 34節で収穫のときが近づいたので、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送りました。ところが農夫たちは、この僕を捕まえて、一人を袋叩きにしました。一人を殺し、次の一人を石で打ち殺しました。さらに前よりも多くの僕を送りましたが、農夫たちが同じ目に遭わせました。袋叩き、殺し、石打にした、と彼らの行動はエスカレートしていきました。

 そこで最後に、「わたしの息子なら敬ってくれるだろう」といって、主人は自分の息子を送りました。しかし、農夫たちは、その息子をみて話し合いました。「これは跡取りだ、さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。」そして息子を捕まえて、ぶどう園の外に放り出してしまいました。主人から管理をまかされたものを、跡取りを殺せば、手に入るという考えに疑問がわきます。当時の決まりによりますと、相続人のいない財産は、最初にそれを占有した者の財産になったそうです。

 イエスは、人からは役立たない石として捨て去られましたが、神によって「隅のかしら石」とされました。聖ルカは使徒言行録411節で「あなたがた家を建てる者に捨てられ、隅の親石となった石です」と記しています。初代教会の中で、イエスこそ「人に捨てられ、神に選ばれた石」として確固たる位置にあります。更に続けて証言しています。12節「この人による以外に救いはありません。私たちが救われるべきもの名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。

 43節の「だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる」というは、マタイだけが伝える言葉ですが、「あなたたちユダヤ民族ではなく、「ふさわしい実を結ぶ民族」である異邦人に与えられることになります。



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