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説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2023年9月10日(聖霊降誕後第15主日) 

神の忠告に従い、兄弟姉妹を得る

マタイによる福音書18章15-20
 

 

 マタイ福音書18章は教会共同体のあり方についての教えを集めたことから「教会の章」と呼ばれます。きょうの日課の前の1-5節では、イエスを信じる「これらの小さいものを受け入れ、躓かせないことが弟子たちに求められます。10-14には、「迷い出た羊」の譬えが述べられています。これらの小さい者が一人も滅びることは、決して天の父のみ心ではないのです。しかし神のみ心を知らずに罪を犯す者がいます。そこで一貫して問われているのは、共同体の中にいる小さくされている兄弟に対して配慮を欠かさないということです。きょうの箇所は迷い出た羊のたとえに続いて語られますが、罪を犯した兄弟も「小さな者」であり、滅びてはならない「一匹の羊」なのです。

 15節で、イエスは「だが、兄弟があなたに対して罪を犯すなら」と話し始めます。罪とは、殺人などの犯罪でしょうか。神から離れていることでしょう。

 兄弟姉妹が罪を犯したなら、神から離れたなら報復するのではなく、また見過ごしにするのでもなく、忠告しなさい。「小さな者」を心にかける神の思いを知らせることが、ここで求められている忠告です。忠告すると訳されている語は光にさらすことを意味します。

 しかし、忠告聞かない者もいます。それでも「兄弟を得るために繰り返し、繰り返し忠告しなければなりません。忠告とは神の人が滅びることを望まない神のみ心を伝え、神の思いへ心を向けさせることです。忠告を聞かないものにもイエスを受け入れないものにも最後まで寄り添うこと、あきらめないで忍耐強く伝えるのです。兄弟姉妹を兄弟姉妹として、神の共同体に取り戻すことがきょうの主要なテーマであり、イエスの熱い思いがここにあると言えるでしょう。

 それでも聞き入れられないならば、「ほかに一人か二人、一緒に連れて行く」(16)、とあります。申命記1915節には、あることが真実であるかどうかの証明には、「人が犯したどのような罪も、二人または三人の証人の証言によって確定されなければならない」と記されています。 

 それがキリストの信仰共同体にも受け継がれていきました。そして最後に「教会に申し出る」(17)。忠告の目的が小さくされた人への非難中傷ではなく、兄弟姉妹を得ることにあるのです。

 これは一人で解決できなければ自分たちみんなで解決する、ということです。誰か外の人に解決してもらうのではなく、自分たちの中で解決を図るように、という意味にも受け取れます。

 教会にも聞き従わない者は、「異邦人や徴税人」(17)のようになる、と述べています。当時のユダヤ人社会の「異邦人や徴税人」という言葉遣いは、神の民から排除された人を指します。しかし、徴税人や異邦人に対するイエスの態度から考えれば、イエス自身が弟子たちに語った言葉とは考えにくいでしょう。これはむしろ、ユダヤ人キリスト者からなる共同体であったマタイの教会特有の言い回しのようでもあります。とにかく、ここではどういうケースの場合には「異邦人や徴税人」扱いせよ、ということに重心を置くのではなく、「切り捨てないように、ぎりぎりまでいかに努力するか」ということにポイントがあります。

 わたしたちの教会の中にもいろいろな問題があります。教会の中で人と人とが兄弟姉妹同士が傷つけ合うのは、実に悲しいことです。そういう現実を抱えたわたしたちに、きょうの福音はどんな光を投げかけてくれるでしょうか。

 18節の「つなぐ、とく」という言語は、つなぐは許されない、解くは許すことです。マタイ1619節では、「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、地上で解くことは、天でも解かれる」と述べ、ペトロに与えられた使命でしたが、ここではもっと広く、すべての弟子に与えられています。地のうえでつなぐこと、教会の権威を述べていますが、その権威は人間から来るのではなく信仰共同体である教会の中心にいるイエスから来ます。地でつながれることは天につながれます教会の下す決定が力強いのは教会の行いは神の思いを表わすものだからです。地上で教会が一致して願うことはすべて天の父からのものです。

 そのためには、信仰共同体は地にあって、天の父と結びついています。しかし、信仰共同体の願うことは、利己的なものではなく、神の思いを表わすものだけが実現します。

 19節の「あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる」は、本当に大きな約束です。わたしたちは自分の部屋に隠れて一人で祈ることもありますが、同時に誰かと一緒に祈ろうともします。それはこのイエスの約束に信頼するからです。有名な20節「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」には、兄弟姉妹を神の国に獲得するのは、人間だけの努力によるのではなく、あなたがたのうちの二人または三人が願うことは何でも実現しますが、それを成就させるのは「天の父」であります。教会の願いは、それが神の思いである限り実現します。教会がすべてをしばり、すべてを解く権威を与えられているのは、その中心にイエスがいるからです。教会はイエスの名によって集められ、イエスとの交わりの中へ入れられた者の集まりです。その中心にはイエスがいます。誕生の出来事で「インマヌエル」と呼ばれるイエスが、ともにいることを知らせるために、教会は罪を犯した者への忠告を続けます。罪を犯した者を忠告するときも教会の行動は、小さな者が一人も滅びないことを願う神の思いに従い宣教活動を続けて行かなければなりません。



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