header
説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2023年8月6日(主イエス変容の日) 

5000人に食べ物を与える  

マタイによる福音書14章13-21
 

 

 今日、86日は、広島に78回目の原爆投下を受けた日です。9日の長崎とともにわたしたちは、この日を決して忘れません。核兵器廃絶とともに、別れ争う国々の人々が共に武器を置くように祈ります。きょうの日課は主イエス変容の日に当たります。ルカによる福音書928節から選ばれています。イエスは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブの三人だけを連れて山に登りました。

 92-13節には「イエスの変容とエリヤに関する問い」が述べられています。2-8節が「イエスの変容」物語と言われているところです。その意味するところは、そこで、イエスは自分が受けることになる神の愛する子としての栄光を弟子たちに垣間見させると共に、神の栄光のために受難は避けられないことを教えます。「弟子たちの前で」イエスの姿は変わり、どんなさらし職人の腕前をもってしてもこの世の者には作り出すことのできない白さをまとうのです。「弟子たちの前で」とあるように、イエスの変容は弟子にイエスが受ける栄光の意味を教えるためのものであります。神の栄光をまとったイエスがエリヤとモーセと共に語り合う光景を弟子たちは目の当たりにします。ペトロは目の前に繰り広げられた天上の至福をこの地上に留めておきたいととっさに思いつき、いいました。ペトロが「三つの仮小屋を造りましょう」と提案しました。彼らがイエスの死を恐れ、しかもイエスが神から受ける栄光の意味を理解できないからでした。

 受難を経ずに神の栄光は与えられない。目の前の至福を今ここに留めようとするペトロの提案は神から退けられました。神が弟子たちに命じたのは、「私の愛する子に聞け」ということでした。雲からの声が聞こえた後、弟子たちが周囲を見回しましたが、誰も見えませんでした。イエスだけが自分たちと共にいるのを実感しました。まさに弟子たちと共にいるイエスこそは、十字架の道を歩むイエスであります。弟子たちはイエスと共に十字架を担うことを主なる神は求めています。これは山の上でのイエスの変容の出来事でありました。

 今日は、マタイによる福音書の続きをともに学んでいきたいと思います。

 マタイでは、洗礼者ヨハネの殉教の知らせの直後にこの5000人の供食の物語が置かれています。この出来事は、マルコ・マタイ・ルカ・ヨハネ、四つの福音書すべてに共通して伝えられている物語です。

 きょうの日課を1314節と15-21節に二分してみますと、日課の冒頭の13節に、「イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた」とありますので、ここでイエスは、自分にも危険が及びそうな状況を回避したと考えられるでしょう。しかし、群衆はその後を追い方々の町々から集まってきました。その人々の飢えや渇きに応えるという活動は変わらずに続いていきます。14節で「大勢の群衆を見て深く憐れみ」は、この箇所全体をマタイ福音書がイエスをどう見ているかを現わしているようです。「深く憐れむ」からこそ、イエスは病人をいやしました。「深く憐れむ」と訳された言葉は、ギリシア語で「スプランクニゾマイ」という動詞です。この言葉は、目の前の人の苦しみを見たときに、自分のはらわたがちぎれるほどゆさぶられる、ということを意味する言葉です。苦しみや悲しみに対する深い共感を表す言葉です。イエスに従ってくる群衆の中の病人をいやし、食べ物を与えるのは、この「苦しむ人への共感」から出た行動でした。

 さて、15節以下の供食物語には、その伝承の形成過程にいくつかの要因が考えられます。旧約聖書への連想では、「エリシャが20個のパンで100人に食べさせたという記事(王下4:42-44)、もう一つは、出エジプト記16章の「イスラエルが荒野でマナを食した物語があります。マタイの場合15節の夕方になったので、群衆を解散させる話が出てきました。「群集を解散させてください」(15)という弟子たちの考えは普通に群衆を心配した常識的な発言です。なぜなら自分たちの今の力量では人里離れたこの場所ではこれだけの人々に食料を配るのは絶対に無理だと分かっていたからです。

 しかしイエスは「あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい」(16)と言われます。弟子たちは結局、イエスを手伝って群集にパンを配ることになりました。これが弟子たちに与えられた役目でした。イエスは「主の晩餐」へと招いているのです。人のいないこの場所、すなわち荒れ野はイエスが人々を養うところである、と示しているのです。そして、イエスが羊飼いのいない羊を見て憐れまれたように、目の前で自分を待っている人たちに対して、深い憐れみの心をもって、その必要とするものに応えようとしたのでしょう。

 イエスは弟子たちに、パンを配らせることによって「人と人とのつながり」そのつながりを見える形にしました。またそのつながりのなかに、イエスがともにいて働いてくださることを知らしめたのではないでしょうか。

 この弟子たちのあり様は、わたしたち自身の姿でもあるのでしょう。

 わたしたちが自分の力でどれだけのことができるでしょうか。先に、主の晩餐の制定とされている2620節から見てみますと、一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これがわたしの体である。」と動作の流れがあります。14章の19節でも群衆を草の上に座らせ、「五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった」。イエスの食事の際には、この箇所でも最後の晩さんの席でも、ほとんどいつも「パンを取り」「賛美の祈りをする」「パンを裂く」そして「与える」という四つの動詞で表されます。取るのは賛美の祈りをするためです。「裂く」のは「与える」ためです。「パンを取り、賛美の祈りをする」は、神から与えられたものであることを表しています。命の継続を与えてくださる父なる神との強いつながりが意識されます。イエスの十字架の罪の赦しを意識します。

 イエスは「パンを裂いて与える」。このパンを裂くのは、一人で食べるのではなく、皆と分け合って食べるためです。この分け与えるという手伝いを弟子たちが分担したのです。この「神とのつながり」や「人と人とのつながり」は、まさにイエスの食事の形だったと言えます。神が人に多くの食べ物を与えてくださるから満腹できる、というだけでなく、人と人とが分け合えば豊かになれるというだけでもありません。すべてのものは神から与えられたものです。だからこそ人と人とが分かち合って食べるのです。これこそがイエスの食事の豊かさなのです。なお、20節の「パンの屑」は、裂かれたものとして、寄せ集められましたが、その残りは12カゴに一杯になったというところにも、満ち溢れる命の豊かさが示されています。わたしたちの食事はどうでしょうか? 多くのキリスト者ではない友人と食事をするとき「いただきます」と感謝をしています。日本人の場合だれに感謝するか分かりませんが、この肉の命をつなぐ恵みをありがとう、と感謝の言葉を述べているようです。

 わたしたちキリスト者は、自分の力で得た食べ物を自分だけで食べないで、だれかと分け合っていただくことに喜びを感じます。食事だけではなく、神様から頂いた恵みを分かち合うのです。しかし人生はそれだけではありません。もともとわたしたちはすべてのものを自分の力で得たわけではないのです。振り返ってみる時、その背後に大きな神の力を感じるでしょう。み言葉は、私たちが神と出会うことなしには、自分の人生を生きられないことを教えています。神と出会うということは、神こそが私の人生の主となって下さるということです。この神の前に弱さも欠けた部分も差し出すとき、神は私たちの人生をすくい上げてくださるのです。



このページトップ」へ戻る