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説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2023年7月2日(聖霊降臨後第5主日) 

受け入れる人は、報われる

マタイによる福音書10章34-42
 

 

 聖霊降臨後第3主日から振り返っていきますと、マタイ福音書101節で、イエスは12人の弟子を選び、聖別し世に使徒たちとして派遣します。そして16節で、使徒たちは迫害を受けることを預言しました。恐れてはならない、と励まされました。1アサリオンで売られている雀よりもあなたたちは愛されて命を守られていることがかたられていました。さらに弟子たちを派遣するにあたってのイエスの長い説教に続く、という流れになっています。

 今日の福音はその結びの部分になります。それは、派遣される弟子たちのための励ましの説教になりますが、いきなり衝撃的な言葉から始まります。

 「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる。」(1034-36) さらに「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない」(37)というイエスの言葉は、わたしたちがもっている常識を揺さぶります。なぜなら「家族を大切にしなければならない」ということは、多くの人にとって当然のこととして生活をしているからです。

 イエスの言葉は明らかに「イエスか、それとも肉親か」を天秤にかけて、どちらかの二者択一を迫っています。なぜ?イエスのこの説教は、家族との対立を起こさせるのでしょうか。それはイエスの説教が、家族関係のもつある種の「狭さ」を越えて、広く大きく世界に目を向けさせるものです。

 イエスに従おうとするものにとって、血縁的な人間関係を自分の意思で断ち切るという決断が要求されています。

 逆に言えば、イエスにおいて肉親の絆を切るゆえにこそ、マタイの1248節で、次の言葉が語られます。「『わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。』そして、弟子たちの方を指して言われた。『見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である』」(マタ12:48-50)のです。

 イエスは「自分の家族さえ良ければ」という内向きな考え方を捨てて、父なる神のもとですべての人が兄弟であり、姉妹であるという世界に生きるように人々に諭しておられます。

 イエスは、血縁のつながりを越えて別の共同体へ人びとを招いています。だから誰からも相手にされない孤独な人、また家族がいても家族からも厄介者扱いされているような人にとって、それはまさに「良い知らせ=福音」と言えるでしょう。

 イエスの最初の弟子ペトロとアンデレ、ヤコブとその兄弟ヨハネの4人の漁師たちも家族を捨てて、漁師という生業も捨てて、人間を獲る漁師として、イエスに従っていった弟子たちにとっても「良い知らせ=福音」だったに違いありません。わたしたちは、イエスに従おうとするとき、イエスに従うことによって、近親者との対立や迫害が起こることは避けられない状況に追い込まれています。そのような中にあっても対立を乗り越えてイエスの福音に踏みとどまりなさい、という教えだといえるでしょう。

 38節では、さらに一歩進めて、「自分の十字架を取って、わたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。」「自分の命をえようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者が、それを得るのである。」

 「自分の十字架を担って」ということは、妥協しないで命をかけてイエスに従うことを意味します。これが弟子になるための条件であります。「十字架を担う」と訳されているランバノーという動詞は、取る(十字架を)、受ける、獲得する、と言う意味もあるそうです。41節では、ランバノーは、報いを受けると訳されています。この語句の使い方は、十字架の殉教というよりも、イエスの弟子が「受ける」報いの大きさを述べています。

 これはイエスの十字架の死と言う大きな犠牲から生じたものです。弟子である宣教者たるものはイエスと同じ運命を辿る覚悟が必要であると求められています。

 40節は弟子たちの働きの重要性と、それを受け入れる人への祝福を語ります。イエスは「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。」

 弟子たちを受け入れることが、弟子たちを派遣したイエスが神に受け入れるのと同じ報いを受けるのです。

 宣教者に対するもてなしは、イエスとイエスを遣わした神を迎え入れることです。宣教者が伝えた言葉を受け入れることは、イエスとイエスを遣わした神を迎え入れることは、福音を受け入れることでもあります。

 「わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」(42)のです。

  42節の「水一杯飲ませる」は、普通の状況では小さい善意ですが、当時の状況からみて、もし迫害されているクリスチャンに対してそうするのであれば、水を差しだした人もその一味だと思われるかも知れません。だから不利益を被る覚悟が必要なのかも知れません。またここで「わたしの弟子=小さな者」と言われていますが、これも迫害されているクリスチャンの姿を連想させます。

 イエスの歩まれた迫害や苦難、しんどいことを乗り越えて、イエスの道に倣って人々にイエスの救いを宣べ伝えるように示されています。


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