header
説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2023年6月25日(聖霊降臨後第4主日) 

恐れずに 告げなさい

マタイによる福音書10章24-33
 

 

 きょうの箇所は12使徒を派遣するにあたって、先主日に続いてイエスの言葉です。天の国の福音を告げ、悪霊を追い出し、病人をいやす使徒たちの活動は必ずしも好意的に受け入れられるとは限らなかったようです。(マタイ1014)、むしろ、迫害を受けることを避けられない(1017-23)とイエスは予告します。そして、その中でどういう態度を取るべきか、きょうの福音は迫害にどう対処するかからはじまりますが、十二人の使徒をイエスは宣教へと遣わしますが、それは「羊を狼の中へ送り入れるようなもの」である。(マタ10:16)弟子たちはイエスの言葉を宣べ伝え、イエスの証し人になるのです。だから結果として、人々は弟子たちを迫害します。しかし、弟子たちはそのとき何を言えば良いのかと心配する必要はないのです。語るのは弟子ではなくて、弟子を通して父の霊が語るからです。イエスの言葉を伝える人は家族からも迫害されています。「わたしの名のためにすべての人に憎まれる」とも言われているとおりです。

 しかし、一方、「最後まで 耐え忍ぶ者は救われる」と約束されています。「一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい」とも言われます。人の子の再臨が近いということの宣言でもあります(マタ 10:16-23)。

  きょうの日課の24節では弟子は師と、僕は主人と同じであることが語られています。25節では、「人々が一家の主人がベルゼブル、(すなわち悪霊の頭)と呼んで中傷するなら、言うまでもなく、家族の者ももっとひどく言われる」と述べて、弟子が受ける迫害が厳しいものである、と告げています。

 迫害を前にして、ひるんでいる弟子たちに、イエスは「恐れてはならない」と励まします。迫害者となるかも知れない人々を恐れてはならない、と諭します。また、「覆われているもの、隠されているもの」(26節)とは何を指しているのでしょうか。27節とのつながりでは「イエスの告げる天の国の福音」ということになります。弟子には、いま知られていても、人々には隠されている事柄が覆いを剥がされ、誰の目にも真実が明らかにされる日が来るのです。人の子の再臨と救いの約束に支えられ、終わりの日が必ず来るんだという希望をもって宣教する弟子たちの正しさが明らかにされるのです。

 福音の言葉は、文脈によっていろいろな受け取り方ができることはよくあります。今のわたしたちの置かれている状況の中で、この言葉から思い浮ぶことはどんなことでしょうか。「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(28)

 弟子たちは「体を殺す者」を恐れる必要がありません。「体を殺す者」は「魂を殺すことのできない者」です。弟子たちが恐れなければならないのは、「魂も体も滅ぼすことのできる方」であります。わたしたちの命を支配するのは神ただひとりだけです。ここで雀の譬えが語られますが、このような小鳥は、重い皮膚病の人の清めの儀式に使われた(レビ記14)ようですし、食用にもなったそうです。

 「アサリオン」はローマの小額貨幣で、今で言えば約500円相当になるらしいです。「二羽の雀が一アサリオン」というのは一羽では売り物にならないほど価値が低い、ということを意味します。この雀さえもその命は神の許しなしには奪われることはないのです。まして弟子は神の保護からもれることはありえないのです。髪の毛一本のたとえも、神がわたしたちのすべてをご存知です。この二つのたとえを通して、わたしたちを包んでくださる神の慈しみはどんなにか大きなものでありましょう。決してなくなることがありません。

 32-33節はイエスを知っている、「イエスの仲間である」とはどういうことでしょうか。マタイ721-23節を見ると、ただ口先で「イエスを信じます」と言うことではなく、イエスのみ心に忠実に従う生き方を含むと言えるでしょう。神のみこころを信じる魂に忠実に生きるようになることです。

 そして、イエスを主であると告白する者には、天の父の前で認められます。救いが約束されています。弟子が宣教するのは自分の救いのためだけではありません。むしろ、真実を知らないために迫害者になってしまう人々が救われるために、弟子はイエスの言葉を宣べ伝えるのです。そのような弟子をイエスは仲間と認めてくださいます。

 イエスの言葉を光の中で、イエスを主と告白する力は神から与えられるのです。たとえ人々が迫害者となって迫ってこようとも、イエスは恐れる必要のないことを教えます。イエスは、人々を恐れるのではなく、「神を恐れていなさい」と命じて、弟子たちの視線を命の主である神に向けさせます。迫害者に囲まれる中でも弟子に命を与えているのは神であります。

 未来の確かな救いがあるから、人は現在の苦しみを耐えて希望もって生きることができるのです。病気、失業、犯罪、暴力、人からの裏切りなど、このようにわたしたちに恐れを引き起こさせるものはいろいろあるでしょう。「恐れ」は必ずしも悪いことだけ、とはいえません。個々人が自らの生活のあり方を慎重にして、注意深く吟味しながら生活することができるようになります。病気や犯罪から身を守るために役に立つこともあるのです。恐れが問題になるのは、恐れのために、日々の生活と人生が振り回されて、本来やるべきことができなくなってしまうときです。「恐れるな」というイエスの言葉はそういう状況の中でどう受け取ればよいのではないでしょうか。イエスがともにいてくださるので恐れを克服できることを信じて歩んで行きましょう。


このページトップ」へ戻る