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説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2023年6月11日(聖霊降臨後第2主日) 

マタイの召命

マタイによる福音書9章9-13
 

 

 三位一体の主日での世の終わりまでイエスが共にいるという勇気づけがありました。本日の福音の箇所の前の段落で、9章からイエスが女性たちへの癒し(18節)、二人の盲人への癒し(27節)、口のきけない人への癒やす(32節)ことによって権能を示されました。

 イエスは最初にペトロやアンデレたちを弟子に召し出した時、ガリラヤ湖のほとりを歩いていた時でした。そのときと同様に、ここでもイエスがマタイのそばへと近づいて行きました。イエスは「通り過ぎつつ」、マタイを「見て」、「私に従いなさい」と言います。マタイは「立ち上がって」、イエスに「従った」。

と記しています。マタイが召し出されるこの場面にも、新約聖書の召命物語に共通する一定のパターンが見られます。

 召し出されるとは、仏教でいう出家とは違います。出家は自分の判断が中心になりますが、召し出されるとは、イエスに呼び出されることです。

 私は以前神学校へ導かれて行く時に、親戚を回って「キリスト教に出家するので葬儀にも出れない」と言ってまわりました。それは仏教的な風土の中で育った人たちに分り易いからです。

 イエスの弟子となる者は、自ら師を求めてイエスにたどり着くのではありません。イエスが近づいてきて、その人を弟子にしていくのです。

 弟子の召命という出来事の主導権はまったくイエスの手中にあります。イエスに声をかけられたひとたちは即座にイエスに従っていきます。しかし、彼らが、なぜイエスに従う気持ちになったかという分けは何も記されていません。

 ただ、彼らはイエスの持つ大きな力に引き寄せられて行きました。

 イエスに呼び出されたペトロとアンデレは網を「捨て」、ヤコブとヨハネは舟と父親を「残して」 イエスに従いました。(マタ4:18 22)。

 舟や網を「捨てる」。すなわち生業を捨て、親を残して、ペトロたちはイエスの言葉に引き寄せられるようにしてイエスに従っていきました。

 きょうの福音では、マタイはイエスに呼ばれると「立ち上がって」、イエスに従いました。

 収税所に座っているマタイを立ち上がらせたのはイエス の「私に従いなさい」という言葉であります。マタイもまたペトロたちと同様に、イエスの言葉に引き寄せられています。従って行きました。

 10節を直訳しますと、家でイエスが食事の席で横になっていると「「横になっている」と「一緒に横になっている」という動詞が用いられています。「横たわっている」という動作は食事の姿勢を表します。ギリシア人やローマ人は食卓を囲む長椅子に横たわって食事をしていましたが、ユダヤ人も同様の姿勢で食事をしていました。

 「徴税人たちと罪人たち」はイエスと一緒に食事をしている。これは、大問題になっています。

 当時のユダヤはローマ帝国の属州ですので、ユダヤ人でローマから徴税権を買った人が、徴税人として税を集めていました。

 税額は徴税人の裁量に任されていました。彼らは不当な取り立てをしていたために軽蔑されていました。それだけではありません。ローマ帝国に仕える者でありますから、異邦人との交わることによって、祭儀的に不浄である。という理由で嫌われ、罪人の仲間とされていました。

 「罪人」とは律法学者やファリサイ派から律法を守らないと批判された人々であります。徴税人や娼婦などが罪人と呼ばれていました。

 ファリサイ派の人々はイエスが「徴税人たちと罪人たち」と共に食事をすることを批判します。なぜなら、ユダヤ教では、食事は神が与えた食物を感謝と賛美をささげて聖別して食べるという礼拝的な行為でありました。そのため、ユダヤ教の人々は罪人が食事に加わることによって汚されることを避けようとしていました。ファリサイ派の人々は自分たちが目にした出来事を言葉を変えて繰り返えし、繰り返し、かれらの戸惑いと頑なさを示しています。

 彼らファリサイ派の人たちはイエスの取った行動のなかに示されている神の思いを理解できなかったのです。

 弟子たちの召命物語は、ファリサイ派の人々が大切にする律法遵守という厳格さは要求されていません。「神の支配」イエスの力が無条件で人々に近づくことです。条件が付いていません。このことは「徴税人や罪人」がイエスと共に食事に与るという形で示されています。

 「イエスの弟子」とはイエスの呼びかけに従い、罪人と一緒の食事を受け入れる者であります。しかし、この食事を良く思わない人々がいます。ファリサイ派の人々から見れば、「徴税人や罪人」は律法を守ることをしない。守ることができないない生活をしている人々でありますので、共に食事に与ることなどはまさに忌み嫌うものでしかありません。

 神への感謝と賛美をささげて共に食事に与ることは、神の共同体として一つになるという宗教的な意味合いがあります。ファリサイ派の人々は食事を汚さないために、神の共同体から罪人を排除しました。ファリサイ派の人々は、自分たちが思い描く「神の支配」とは異なる現実が、イエスによって目の前に繰り広げられていることに不服を感じています。

 そこで、イエスは「健康な者は医者を必要としていないが、病気の者は医者を必要としている」と語り、マタイ福音書はこのイエスの言葉に、ホセア書の引用を付け加えています。

 ホセアの66節「わたしが喜ぶのは、愛であっていけにえではなく、神を知ることであって、焼き尽くすささげものではない」と記しています。

  13節ではホセアの言葉を「学ぶ」なら、イエスが罪人と食事を共にすることの意味を知ることができると教えています。「「わたしが求めるのは、慈しみであって、いけにえではない」とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしがきたのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」イエスは神の憐れみの心を現す人だからです。イエスが罪人と食事を共にしたのは、偏見を捨てた豊かな心や踏みつけられた人々への同情を示すためだけではなく、それを越えて、いっそう深い次元にまで関わっています。

 キリスト者が聞いて学ぶことを求められているのは、その生活が生来的な資質に基づくというよりは、キリストを通して示された神の心と深く関わっているためです。キリスト者は、すべてにおいて模範であるキリストから学ぶことができます。キリストは御子でありながら、多くの苦しみによって従順を「学び」(ヘブ5:8)、重荷を負う者に、彼に「学ぶ」なら、安らぎが得られると呼びかけます(マタ11: 29)。

 罪人を避けることではなく、罪人を呼ぶ(招く)ことを神は望んでいます。人の思う正しさを遥かに超える神の思いに目を向けさせるためにイエスは私たちのもとに来ました。

 神の憐れみの心と生きるべき正しさに気づくために、イエスのもとに「行き、学ぶ」ことが求められています。


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