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説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2023年5月28日(聖霊降臨日) 

十人の弟子たちへ顕れる

ヨハネによる福音書20章19-23
 

 

 聖霊降臨日は、ギリシア語では「ペンテコステ」と呼ばれ、復活日から第50番目を意味する日です。聖公会の教会歴では40日目の主の昇天日を含めてこの期間を大いなる50日と呼ばれています。祭色もこの日は、聖霊降臨を表わす赤色を用いています。 イエスの復活後、使徒たちが教会の活動を始めるにあたって、聖霊の働きを強く感じたことを記念し、教会の誕生日として祝われる日です。

 週報の裏面に聖霊降臨の起こった部屋とされている写真を掲載しました。それは、最後の晩餐が行われた部屋でもあります。

 きょうは、ヨハネによる福音書20章と使徒言行録21節からの両方の箇所をとおして、わたしたちに与えられている聖霊の働きと聖霊を受けた弟子たちは、罪を赦す権能が与えられました。この二つに重点をおいて見ていきましょう。

 また、きょうの福音は、復活節第二主日に読まれた箇所に重なっています。

 19節からご一緒に見ていきましょう。その日、週の初めの日の夕方、のその日というのは、復活したイエスがマグダラのマリアに顕れ、今度は、弟子たちに顕れました。ところが弟子たちはユダヤ人たちを恐れて、自分たちのいる家のいくつもの戸に鍵をかけていました。それほど弟子たちは、おびえていたのでした。戸が閉じられていたように、弟子たちの心も恐れのあまり固く閉じられていたのです。 そこにイエスが来ました。そして弟子たちの真ん中に立ちました。「あなたがたに平和があるように」と言いました。閉じられている戸が開かれないでイエスは顕れたのです。この挨拶を交わしてから「両手とわき腹」みせました。イエスの両手には、十字架に釘付けされたときの傷がありました。またイエスが息を引き取ったとき、兵士たちはイエスのわき腹を槍でさした傷もありました。イエスはその手とわき腹をみせました。これは十字架上で死んだイエスと復活のイエスが同一人物であることを示しました。これは弟子たちが今、遭遇している光景が決して夢幻でないことを告げ知らせているのです。この現実を弟子たちは喜びました。再びイエスは「あなたがたに平和がありますように」と言われました。これは14章の告別説教でイエスが約束していた「平和」の成就と考えられます。イエスは「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない」(14:27)と約束しました。イエスが約束していた「平和」が今、現実のものとして弟子たちに与えられたことを、この挨拶は示しています。イエスの「あなたに平和」は、ユダヤ人にとっては日常的な挨拶でありますが、新約聖書では儀礼的な挨拶を超え、恐れを喜びに変える神からの祝福を伝える言葉になっています。イエスに派遣された72人は、どこかの家に入ったら、まず「この家に平和があるように」と言うように命じられています。また、「平和」は使徒たちの手紙の挨拶に使われるようになりました。「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの平和」があるように、この平和は神からイエス・キリストを通して人々に与えられる賜物です。その場合、平和はただ単に毎日が無事でいられることを越えて、神がもたらしてくださる救いと同義であり、イエス・キリストを通して神から人に与えられる恵みの賜物を意味します。ヨハネ福音書の平和は、イエスが与える平和のなかに弟子たちはイエスと共に生きことであり、この平和に招かれている人は復活のいのちに生き始めています。イエスは、「わたしもあなたがたを遣わす」と言ってから、「息を吹きかけられました」。この「息を吹きかけて」は、創世記2章7節でアダムが創造された場面を思い起します。神は「土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた」ように、イエスは弟子に息を吹きかけ、復活のいのちに生きる者へと新たに創造されました。神の息はものごとを新たにします。古い人をまったく新たな存在に変えるためにイエスは「聖霊を受けなさい」と命じます。プネウマ、「霊」という語は、もともとは「息」を意味します。イエスに息を吹きかけられた弟子たちは、「霊」を受けたのです。それは果たすべき使命が与えられたしるしでもあります。その使命を成し遂げるために力が与えられていることの証であります。23節で「罪を赦す」という語は、ある研究者の解説では、「『(借金を)免ずる・放っておく・そのままにする』という意味を持っている。罪を放っておく、ということから、赦すという意味が出てくるのだろう。」と言っています。また、パウロが好んで使う「赦す(カリゾマイ)」は「恵み(カリス)」からの派生語である。と言います。「保持する」はここでは、「罪を捕まえておく」ことであり、「赦さない」という意味になります。罪をその手から放すとき、その代わりに他の人を手に入れるこができるのです。そのような赦しができるのは、弟子たちがイエスから赦されているからであります。それは恵みであります。イエスが吹きかけた息は弟子たちを造り変え、すべての人をその汚れから清めます。イエスとの交わりは、イエスの死によって断たれることなく、復活によってさらに高められてゆきます。きょう読まれました使徒言行録2章では「激しい風が吹いてくるような音」や「炎のような舌」(3)がそれにあたり、ヨハネ20章では「息を吹きかけ」(22)がそのしるしです。炎のような「舌」は、使徒たちに与えられる聖霊の賜物を象徴しています。聖霊はサクラメントの中だけに働くとか、教会の中だけに働くのではなく、また、自分の中だけに働くのでもなく、今のように離れた所で礼拝している人たちの中にも、人が意識しても意識しなくても、聖霊はいつも働いてくださっているのです。十字架によってわたしたちの罪を贖ったイエスは、復活によって死に打ち勝ち、死を超えた「平和」をもたらします。イエスは弟子たちに「宣教と赦し」という使命と権能を与えられました。だから「あなた方に平和がありますように」と、言って世に出ていきなさい、とイエスは「呼びかけています。


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