header
説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2023年4月30日(復活節第4主日) 

門である主イエス

ヨハネによる福音書10章1-10
 

 

 復活節第4主日は毎年、ヨハネ10章から選ばれています。ちなみにB年は11-18節、C年は22-30節が読まれます。また、次主日からも聖霊降臨日の日課までは、ヨハネ福音書が読まれます。きょうの福音は、「羊と羊飼い」のたとえですが、比喩的に良い羊飼いとして、いのちを与えるイエスと、羊であるわたしたちとの深いつながりが示されています。

 きょうのヨハネ10章のイエスの言葉は、9章の終わりから続いています。それは、「生まれながらの盲人のいやし」の物語でした。「イエスは泥をこねてその盲人の目に塗り、その人をいやしました。そこで、ユダヤ人たちは癒されたひとに「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が、罪ある人間だと知っているのだ」と詰め寄っています。31節で「神は罪人の言うことはお聞きにならない…しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことはお聞きになります。」と信仰告白をして、イエスに従います。ヨハネ福音書が書かれた時代の教会は、ファリサイ派に代表されるユダヤ教と対立関係にありました。ユダヤ教からの攻撃にさらされている教会が聞き従うべき声を知らなければ、キリスト教の集まりを壊滅させようとする盗人の手に渡ってしまいます。 

 このような時代背景のもとに羊と羊飼いのたとえが語られます。

 イエスは重要なことを話されるとき、「はっきり言っておく」、直訳すれば、アーメン、アーメン、わたしはいう、あなたがたに、と重要なことをいう場合に使われるといわれています。きょうの箇所では1節と7節でいわれています。

 また、ヨハネ福音書には「わたしは〜である」というイエスの自己宣言がいろいろなところにあります。「わたしがいのちのパンである」(6)、「わたしは門である」「わたしは良い羊飼いである」(10)。わたしは復活であり、いのちである」(11)、「わたしは道であり、真理であり、いのちである」(14)。これらは単なるイエスの自己主張ではありません、イエスの自己宣言であります。これは具体的な生き方に裏打ちされたイエスの立場宣言でもあるのです。

 当時のパレスチナでの羊飼いの一日の生活を辿っていきますと、朝、羊飼いたちは、主人から委嘱された羊たちをその囲いから連れ出し、緑豊かな牧草地帯を旅します。牧草を食べさせ、散歩させ、憩いの汀に伴っていきます。そこで渇きをいやし、夕方には羊は囲いに戻されます。

 朝になって門を出るとき、羊たちは自分の羊飼いを知っていて、自分の羊飼いについていくのだそうです。羊飼いのほうも一匹一匹の羊を見分けることができたと言われています。このような羊飼いと羊たちの信頼関係が背景にあって、きょうのたとえが語られているのです。

 羊飼いがくると門は開かれ、羊飼いは、自分の羊の名を呼んで連れ出します。羊は自分の羊飼いの声を聞き分けます。聞き分けるということは聞いて従うことです。また、羊飼いは、先頭にたって羊を導いていきます。羊は羊飼いの声を知っているのでついていきます。「知らない」ものにはついていかない。と言うのです。「知る」とは、お互いの繋がりを表す言葉です。

 この話を聞いたファリサイ派の人は、意味が分かりませんでした。一般的にはたとえ話は、元来、分からないものを分かりやすく話すために用いるものですが、イエスのたとえ話の特徴は、一つの真理を隠すことにある、と言われています。真理が分かった者には、この譬えが分かります。しかし、真理を信じることができないものには譬えが隠されているのです。ファリサイ派の人たちはまさにそれでした。救い主に出会っているのに知らないのです。

 9章でいやされた盲人が、「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです」と言った言葉そのものの中に、イエスを知るとは、イエスについての知識があることが大切ではなく、自分を救ってくださったイエスとの関係が重要だったのです。

 イエスがわたしたちを知っていてくださるとはどういうことでしょうか。また、わたしたちがイエスを知っている、わたしたちがイエスの声を聞くとはどういうことでしょうか。「知る」「聞く」という言葉を手がかりに、わたしたちが復活して今も生きておられるイエスとどのような関わり・交わりを生きているか、見つめ直してみてはどうでしょう。

 7節でイエスは「わたしは羊たちの門」でしたが、9節で「わたしは門である」と、ご自分を門にたとえます。さらに「わたしを通って入る者は救われる。その人は門を出入りして牧草を見つける」と、救いへの門であることを明らかにされました。

10節の「盗人は盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりする。」と盗人の来る目的とイエスの目的が対比されます。盗人がやって来る目的は、命を奪うために来ますが、イエスは命を救うためにくるのです、それもイエスは、命を豊かに、溢れるほどに与えるために来たのです。イエスの門は、滅びの命と永遠の命を分ける門です。盗人が羊の命を奪い、滅ぼすためにやって来ても、聞き従わなければ、羊たちは自分の命を失わないのです。

 羊たちにとって、命を与えてくださるのがまことの羊飼いです。外の豊かな牧草地に導かれるのです。イエスこそが救いの命を豊かに与えてくださるメシアです。今のわたしたちは「いのち」をどのように感じているでしょうか。

 生まれつき目の見えなかった人がイエスによって癒され、神の業を全身で浴びたように、わたしたちもイエスの声を聴き、それに聞き従い、復活の命に力強く生きるように励ましてくださっています。


このページトップ」へ戻る