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説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2023年4月9日(復活日、第二の聖餐式) 

空の墓

ヨハネによる福音書20章1-10
 

 

 復活日の聖餐式には「復活徹宵祭」と「通常の時間帯の聖餐式」が行われています。さらに聖公会では「夕刻にも聖餐式」が行われている教会もあります。古代ユダヤでは地域によって日没の時間が異なりますが、日没日から新しい一日が始まることになっていました。

 イエスは死んで三日目、今で言えば土曜日の日没から日曜日の明け方までの間に復活したと考えられます。

 きょうの日課のヨハネによる福音書の201節から見ていきましょう。

 「週の初めの日のまだ、暗いうちに、」わたしたちの暦では日曜日になります。19節にもその日、すなわち週の初めの日の夕方とあります。これはイエスの弟子たちへの顕現であります。

 マグダラのマリアは、墓に行きました。それは墓に行けば、イエスに会えるはずでした。しかし、墓にはイエスがいませんでした。

 そこで墓から石が取り除けて、イエスの遺体がなくなっているのに気づきました。マグダラのマリアは、シモン・ペトロのところと、イエスの愛していたもう一人の弟子のところへ走っていきました。そして彼らに告げました。

 十字架上で死なれた主イエスは、アリマタヤのヨセフの墓へと葬られます。きょうの日課の前の記述の19章:38節以下の記述をまとめてみますと、没薬と沈香を混ぜたものを100リトラばかり持ってきて、イエスの遺体を引き取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、十分なほどの香油が主イエスに注がれ、亜麻布に包まれました。イエスの身体は、園のある墓へと葬られます。ところが、日曜日の朝、マグダラのマリアは夜も明けぬまだ暗いうちに墓へと行ったと福音書は記しています。何をしに墓へと行ったのか、福音書には記されておりません。

 マグダラのマリアは、イエスの十字架の死で起こった出来事で、「マリアは死体を探している」、ということを考えてみますと、まだイエスの復活を理解していなかったと言えます。ペトロと愛弟子に「人びとが主を墓から取り去られました。どこにイエスを置いてあるのか知らない」と告げました。彼らも「神が取り去った」ということを知りませんので、「わたしたちにも分かりません」と言います。

 急なマリアからの知らせに、驚きのあまり「人々」が取り去ったものと思い込んでいる彼らは、一目散に駆け出し、イエスを探しに墓に向かいました。それは、ペトロもイエスが愛した弟子も同様に死体を探しに墓に走って行きましたので、マグダラのマリアと同様の思いでした。

 もう一人の愛弟子は、先に着きましたが、墓の中に入ったのはペトロでした。丁寧にくるんで処置しました亜麻布が置いてありました。イエスの頭をくるんだ布は離れた所に丸めて放置されていました。

 8節でこの二人の弟子は、それを見て信じたというのです。それはイエスの体のないことを信じたのです。しかし、9節では、「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。」と記しています。二人の弟子は、何が起こったのか、何がどうしたのか、まだ十分に理解していなかったのです。

 イエスの復活は、人間の言葉によって伝えきれない、あらわしきれない豊かさを持っているように思います。この当時の人々にも、現代に生きるわたしたちにも、死者の復活ということは、とても信じがたい出来事です。ヨハネによる福音書は、イエスの復活が、すでに起こった出来事として描かれております。復活がどのようにしておこったか、どうやって主イエスが墓から出ていったとか、その朝イエスはどこにおられたか、そのようなことを福音記者は全く気にしていません。

 イエスの復活の事実は、どのようにして起こったかを問うのではなく、それが起こったという事実を受け止めるようにと勧めています。

 私達が気づくと、あるのは空の墓。もう既に主イエスが復活されたのだという事実であります。しかし、復活の信仰というのはそういうものではないんだといいます。見えるものを信じる、自分で納得いったから信じるというようなものではありません。行ってみると墓には何もない。イエスの身体を包んでいた亜麻布だけがある。主イエスのご復活の出来事が暗示されているだけです。

 11節で、マグダラのマリアは墓の入り口で泣いていました。イエスの遺体の置いてあったところに白い衣をきた二人の天使が現れ、13節「婦人よ、なぜ泣いているのか」という「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、私には分かりません」といいながら後ろを振り向くとイエスが立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだと分からなかったのです。

 イエスは言われました。「わたしの父であり、あなたがたの父である方、またわたしの神でありあなた方の神である方のところへわたしは上る」と。そのようにいいました。そして、マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って「わたしは、主を見ました」と告げました。

 きょう、空になった墓の知らせを、あの日マグダラのマリアから伝え聞いた二人の弟子達のように、そして、あの二人の弟子が帰っていって、墓での出来事を伝え聞いた人々のように、墓にイエスはおられないのです。

 わたしたちは、イエスが復活されたという、知らせを聞きました。ただ単純に、イエスが復活されました」ということを伝言すればよいのです。あなたもきょう、イエスが復活したという証人へと遣わされているのです。


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