header
説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2023年4月2日(復活前主日、棕櫚の主日) 

受難のイエスの信仰

マタイによる福音書27章1-54
 

 

 きょうから始まる一週間が聖週と言われています。この一週間は、毎日聖餐式・礼拝が献げられていきます。福音書に記された主イエスの受難の物語に沿って、十字架の道行きを追体験してまいります。 また、この主日は棕櫚の主日ともいわれ、棕櫚の枝や棕櫚の十字架の祝福の礼拝が行われます。 

 この受難の物語は、この基節になると音楽では 演奏会が開かれます。21日の火曜日に知人が京都の新島会館横の洛陽教会でバッハの「ヨハネ受難曲」の公演会に合唱で出るので聞きに来て欲しいと言われたので行ってきました。物語はドイツ語で歌われましたが、対訳がついていたので、理解することができました。  

 受難物語の臨場感を味わうことができました。わたしは、バッハの「マタイ受難曲」のレコードを50年前に買って持っていましたのでよく聞いていましたが、ヨハネ受難曲は初めてでしたが福音記者の語りが伝わってきました。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                            

 さて、ピラトによる尋問が始まりました。

ピラトがイエスに「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問したとき、イエスは「それは、あなたが言っていることです」と答えました(マタ27:11)。

 罪状書きに記された「ユダヤ人の王」という称号に表されているように、政治犯です。宗教経的な裁きであるならば、イスラエルということになるらしいのです。

 十字架につけられたイエスをののしる人々の言葉が発せられます。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ、」と悪口雑言、罵声を浴びせかけられます。一緒に十字架に付けられた強盗たちも同じようにいいました。現代でも日本のような少数派のキリスト者に投げつけられる言葉でもあります。この最後の苦しみの中でも、荒野での誘惑と同じように誘惑を拒否しました。イエスをののしった人々のこの言葉は、また、きょうの詩編日課の詩編229節にあります。「主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら/助けてくださるだろう。」

 沈黙を続けたイエスは最期に「なぜ」と叫んで、苦しみに対する神の答えを求めるのです。46節の「イエスは大きな声で叫び声をあげた」と50節の「イエスは再び大きな声で叫んで」います。二度のイエスの叫びの間に人々の反応が描かれています。  人々はイエスの「エリ、エリ」という叫びはエリヤを呼ぶ声だ、と思い込んだ彼らは、エリヤがイエスを救うかどうかを見ようとします。 エリヤは現れませんでした。 

 「十字架から降りることが救い」であると考えているダヤ教指導者たちは、自分を救えないイエスは「神の子」ではなく、「神が望む者」ではないと考えています。

 彼らに対して、神の答えが、51-54節で、十字架の上で死んだイエスは確かに「神が望む者」であり、神の御心を現した者であることが明らかにされます。 この出来事を見て、百人隊長と見張りの者たちは「真に、この人は神の子であった」と告白するのです。このような描写によって、孤独の中でも神を最後まで信じて生きたイエスが、「神が望む神の子」であるという力強いメッセージがここで語られています。

 十字架のイエスを挟んで、「十字架から降りることが救いである」と考える人々と、苦しみの中で叫びを上げて息を引き取ったイエスこそが「神の子」であると告げる神とが対立する構図をここに見ることができます。

 わたしたちはどちらにいるのでしょうか。

 苦しみを逃れることが救いと考える人々にとっては、イエスの叫びは絶望や神への恨みごとのようにしか聞こえてきません。しかし、イエスの叫びは、「苦しむ者の叫びを神は聞き届ける」という信仰からくる叫びであります。だからこそ神は、最後まで神に助けを求めて叫んだイエスを「神の子」と認めるのです。

  イエスは「なぜ、あなたは私を見捨てたのか」と言わざるをえないような苦しみを受けています。そしてその苦しみの答えが見いだせないことを神に訴えているのではないでしょうか。

 それは、人間には与えることのできない回答を神が与えてくれるという信頼から起こる叫びでもあります。 その苦しみを逃れるということではなくて、苦しみを克服してこそ与えられる神の救いがあります。そのことを神はイエスの復活を通して伝えているのです。

 人が自分では生きる力を、気力を、すべて失ったときにも、神の力によって奮い起こされて生きる命であります。その復活のいのちに出会うためには、「十字架から降りることが救い」という考えから離れて、神の力に信頼しきって、今は、見えないけれど、神が示してくださる答えを求め続けるのです。

 神に叫ぶことは、自分には見えない救いがあることを信じることです。

 神が与える救いは確かであると信じることは、将来救いにあずかることのできる喜びを今の生活のなかに現すという生き方になるでしょう。十字架上で神に叫ぶイエスは、苦しみは真の救いへと続いていくことを信じて生きるようにと呼びかけているのではないでようか。


このページトップ」へ戻る