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説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2023年3月26日(大斎節第5主日) 

復活といのち

ヨハネによる福音書11章17-44
 

 

 ヨハネによる福音書のきょうの箇所は、病人であったベタニアのラザロが「死から命へ」と移されていく話です。

 マリアとその姉妹マルタが暮らすベタニアという村は、エルサレムに比較的近くて、15スタディオン、約3km離れたところにあります。2節では「このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である」と紹介されています。イエスは、マルタ、マリアの姉妹の兄弟である愛するラザロが病気であると聞き、「この病気は死で終わるものではない、神の栄光のためである」といいました。急ぐことなく、二日間滞在の後、イエスは「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」弟子たちは「眠っているのであれば、助かるでしょう」と言ったのです。イエスはラザロの死について眠っている、と言われましたが、弟子たちはただ眠りについて話されたものと思いました。イエスはラザロは死んだのだ、とはっきり言いました。

 イエスがラザロのもとに着くと、ひと悶着起こっています。32節でマリアはイエスのおられるところに来て、イエスを見るなり、足元にひれ伏して「主よ、もしここにいてくださいましたなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言いました。33節で、マリアも一緒に来たユダヤ人も泣いていたと記されています。これを見てイエスは憤りを覚えて、興奮して「どこに葬ったのか」と言います。35節でイエスも泣いていますが、その涙のわけは、人々は悲嘆にくれて泣いているのですが、イエスの涙はラザロにいのちを与える神の愛を具体的に現す涙になります。

 人間にとって、死は、悲しんだり、落ち込んだり、諦めたり、どうにもならない現実の前に立たされます。しかし、イエスはそれを「神の栄光」を示す機会にすることができるといいます。だから、イエスは33節では泣いている人々を見て、「心に憤りを覚え、興奮して」いわれました。38節では人々の言葉を聞いて、再び「心に憤りを覚え、興奮して」、言われます。39節ではマルタも、四日もたった死体が臭気を漂わせていると心配しています。

 40節ではマルタに注意をしながら、「もし、信じるなら神の栄光が見られる」と「私は言ったではないか」といいます。 イエスにとって、死は信じる者が「神の栄光を見る」ための機会なのです

 33節と38節で「心に憤りを覚え」と訳されている言葉も、大きな感情の動きを表す言葉です。さらに、死んで、聞くことができないはずのラザロに向かって「ラザロ、出てきなさい」と叫ぶ姿も異様です。ここにイエスの激しい思いが感じられないでしょうか。

 ヨハネ福音書が伝える「神的な力を持ったイエス」と「人間的な弱さや感情を持ったイエス」のこの2つの面は切り離せません。ラザロのよみがえりは、単なる超能力による奇跡ではありません。これは、イエスの深い共感から起こる出来事なのです。マルタが「四日もたっている」と言ったのは、ラザロは完全に死んだと考えているからです。そこで「彼はにおいます」と言うのです。そう思うのはマルタだけではないでしょう。

 26-27節によると、イエスを信じる者は「死んでも生きる」ことをマルタは信じたはずです。それでも、彼女は具体的に直面している不安から自由にはなっていないのです。心配で、心配でたまらないのです。イエスはマルタに「私は言ったではないか」と言い、死体が悪臭を放っていると心配するマルタに向かって「信じなさい。」と更に信仰を求めています。

 人々が墓に「見に出す」ものは悲しみと絶望でありますが、イエスは神の栄光を「見て」いるのです。「死」という得体のしれない力に怒りを覚えるイエスは、ラザロを復活させることによって、人のいのちに深くかかわる神の力を示そうとしているのです。人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで祈りました。イエスは天の父が彼の願いにいつでも「耳を傾けてくださる」ということに絶対的な信頼をおいています。イエスと天の父は完全に一つです。イエスはこのことを今、まわりに佇んでいる群衆たちのためにも、天の父への感謝を言い表します。それによって、人々がイエスと共に神への感謝をささげることができるようになるためです。イエスが奇跡を行うのは、天の父がイエスを遣わしたことを人々が信じるためであります。そして、この信仰が人々を真のいのちへと導くのです。

 イエスが「ラザロ、出て来なさい」と叫ぶとラザロは葬られた時のそのままの姿で墓から出て来ました。ラザロは手足を縛られたままで、どのようにして出て来られたのだろうと考えると不思議です。この奇跡は、この世の命への蘇生にしかすぎません。いつかラザロはまた死ぬことを表しているのかもしれませんが、大事なことは「死後のいのち」を証しする出来事だということです。地上のいのちと繋がっていることです。

 しかし、ラザロの「よみがえり」は、イエスの復活とは違います。ラザロは地上のいのちに戻されますが、それはいつかまた死ぬことになるいのちです。これに対して、イエス・キリストの復活のいのちは、神の永遠のいのちであり、決して滅びることなく、今もいつも生きているいのちです。イエスが「復活であり、いのちである。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」(25)ことが宣言されました。そして、マルタは、「はい、主よ、あなたは世に来れるはずの神の子、メシアであることを信じております。」と信仰告白をしました。わたしたちは逝去者記念で祈ります。「今なお世にあって主に仕えるわたしたちにも恵みを与え、ついに彼らとともに御国の世継ぎとしてください、と祈ります。主よ、わたしたちにもこの恵みに与らせてください。父と子と聖霊のみ名によって。



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