説教要旨 |
2023年3月19日(大斎節第4主日) |
証人にしてください
ヨハネによる福音書9章1-13、28-38
A年の大斎節第3〜第5主日には、ヨハネ福音書が選ばれています。きょうの箇所はその2番目で、生まれながら目の見えなかった人がイエスとの出会いによって「闇から光へ」と移され、イエスを証しする人の物語です。イエスと出会った人の真実の体験がここにあると言えるでしょう。
先週に引き続き、イエスとは、何者かを明らかにしている。
イエスとはどういう方で、目を癒された人の証言について考えてみたいと思います。
福音書が書かれた一世紀末の状況を反映して、当時のユダヤ人社会には、病気や「しょうがい」は罪の結果である、という考えがありました。因果応報の思想というものでしょう。わたしたち日本の土着の文化の中にもこういう意識があるのではないでしょうか。
本人が罪を犯した結果が「しょうがい」をもつものだと考えられました。
しかし、この盲人は「生まれつき目が見えない」ので「それでは両親の罪の結果である」と弟子たちは考えました。
しかし、イエスは「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない」(3節)。そして「神の業がこの人に現れるためである」と言われます。イエスは、「わたしをお遣わしになった方の業を行わねばならない」といいます。そして、イエスは盲人の目に泥を塗り、「遣わされた者」の池と言われる「シロアム」の池で目を洗いなさいと命じました。言葉通りに、目を洗うと目が見えるようになりました。
この人を見た人たちは言いました。「これは物乞いをしていたものではないか」「否、別の人だ」と騒いでいると、本人は「わたしがそうなのです」と言いました。この人の証言は、実に単純明快です。
イエスと言う方が、土をこねて、わたしの目に泥を塗り、「シロアムに行って洗いなさい」と言われたので、そこで洗ったら見えるようになった。と言うのです。何も難しいことを言って証言するのではありません。ありのまま自分の身に起こったことを証言しただけです。
この盲人だった人は、イエスの姿を見ていませんでした。物語の最後に、この人はイエスに出会い、はっきりとイエスを見て、信じるようになりますが、それまでは、イエスがどこにいるか、と問われて「知りません」(12節)と答えています。また「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません」(25節)とも言います。
ただ一つ知っているのは、自分が変えられた体験だけです。イエスが41節で「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう」と述べているように、人間の不完全さそれ自体は罪ではありません。
むしろ不完全さは癒されることによって、神の栄光を現すものになります。
しかし体裁を繕い、自分は完全な者と言い張るとき、結果的に、癒すために遣わされたイエスを拒絶してしまっています。この頑なさが「罪」なのです。
ユダヤ人たちは、罪を否定しようとするあまり、他人の罪を指摘することには熱心になっても、自分の罪は認めず、却って「罪を残す」結果に終わっています。もう一度この盲人のことに着目しますと、15節ではただ「あの方が」とイエスを呼ぶにすぎなかった彼が、 17節では「あの方は預言者です」と答え、 33節では「神のもとから来たのでなければ何もおできになりません」と述べ、さらに 38節では「主よ、信じます」と告白し、跪きます。光を受けて癒され、視力を回復した者が、光の中で徐々にイエスが誰であるかを理解してゆきました。
しかし、ユダヤ人たちはイエスという光に背を向けて、闇に留まるのです。そして彼らは癒された人の信仰告白を妨害しているのです。
ヨハネ福音書では、闇に留まっているのは頑なな人々の方であり、その彼らから追放を受けることは、闇から決別して、イエスに出会い、まことの礼拝をささげるために解き放たれたと考えています。
癒された人は、神から遣わされたイエスに出会い、その光に照らされたとき、目を開かれ神のもとに留まるのか、あるいは光に背を向け闇の中に留まるか、人のあり方は二つに分かれます。
わたしたちはどちらに立っているのでしょうか。
光はそれを受け入れる人を変え、光を拒否する人を闇にとり残していきます。ヨハネ福音書では、父である神を啓示するイエスを信じないがゆえに、神との関わりを失った人間に、「罪(ハマルティアー)」という語が使われています。
イエスが癒しているのに、そこに「神の業」(3・4節)を見ることができないのです。
「この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからか」ということに留まっている限り、罪の縄目から解き放たれないのです。
光として世に来たイエスを拒むユダヤ人たちこそが罪に陥っている(41節)。のです。
わたしたちは、イエスに出会ってどう変えられたのでしょうか。
イエスとの出会いを わたしたちは、どのようにしているでしょうか。
「自分の目の前の人が困っているとき、その苦しみに寄り添わないで、知らないふりをして立ち去ってしまうのか、それとも、イエスが目の見えない人に憐れみを懸けたように、この目の前にいる人にかかわり、その苦しみに寄り添うことができるのでしょうか。
また、この癒された盲人のように、わたしたちは、苦しいこと、しんどいことを一人で背負い込まないで、神に重荷を委ねているでしょうか。
わたしたちは、寄り添い憐れんでくださるイエスに委ねていきましょう。