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説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2023年2月19日(大斎節前主日) 

山上の変容

マタイによる福音書17章1-9
 

 

 大斎節前主日は、主の変容の出来事を伝えています。これはガリラヤでの伝道を終え、十字架に向かわれる分岐点になるところです。

 きょうの福音を見ていきましょう。6日の後、と記されていますが、その六日前に何があったのでしょう。マタイの16章、21節から見ていきますと、イエスは、死と復活を予告します。そこには、「イエスは、ご自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活されることになっている、と弟子たちに語り始めました。22節、すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めました。それに対して、ペトロは、「主よ、とんでもないことです。と言います。「とんでもないこと」とは、メシアには、死があってはならない、ということでしょう。イエスは振り向いてペトロに言われました。「サタン、引き下がれ、あなたはわたしの邪魔をするもの。」このイエスの言葉にペトロは困惑したことでしょう。なぜ、叱られるのか、わけが分かりません。

 それから弟子たちに言われました。「わたしについてきたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る」と言います、まだ厳しい言葉が続きますが。省略します。

 十字架を背負うという表現は、世俗的には「自分にとってマイナス面を背負うこと」として使われますが、そうではなく、このみ言葉の意味は、自己主張することをやめ、どのような高価なものでも、自分に与えようとするものを拒否する生き方です。人間の思いを捨て、神の思いを自分の思いとして背負うことです。それが十字架を背負うことなのです。

 この死と復活の予告があってから6日の後に、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけをつれて、高い山に登られました。高い山は、古代教会の伝承では、タボル山とされていたようですが、他にもシナイ山やヘルモン山という説もありますが特定できません。高い山とは聖なる場所でありました。シナイ山と言いますと、きょうの旧約日課の出エジプト記2415に、モーセが山に登っていくと、雲は山に留まりました。主の栄光はシナイ山の上に留まり、雲は、六日の間、山を覆っていたと記されています。7日目に主は、雲の中からモーセに呼びかけられた」とあります。

 きょうの福音は、高い山で、彼らはイエスの変容を目にしました。イエスの顔が太陽のように輝いたとは、どういうことだったのでしょうか。並行箇所のマルコの第3章では、「服は真っ白に輝き、この世のどんなどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった」と記すだけですが、マタイは衣の描写の他に、イエスの顔の変化も描いています。「かれの顔が太陽のように輝いた。」というのは、イエスの顔の輝きは、復活のキリスト(黙1:16)を思い起こされます。また、シナイ山で神にまみえ、顔が輝いたモーセ(34:29-30)も思い起こされます。

 ここでは、イエスは救いを完成させる「新しいモーセ」として描かれています。

 そして、モーセとエリヤが現れ、語り合っていたので、ペトロは言いました。

 仮小屋を三つ建てましょう。この輝かしい出来事がそのまま続き、現実になって欲しいという願望が現れているようです。しかし、ペトロは話していると、雲が現れ彼らを覆いました。輝く雲が、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者。これに聞け」と言う声が聞こえました。この声が洗礼のときにもありました。これは神の介入です。この変容でも受洗のときの出来事でも、まず、視覚的に目で見て、続いて、声がして、聴覚的に描かれています。イエスとは、誰であるのかが、この神の言葉によって、弟子たちに明らかにされました。

 ここでは、ペトロは、モーセとエリヤ、そしてイエスの三人が話すのを聞いて、イエスに先生ではなく、「主よ」と呼びかけています。ペトロのイエス理解は間違っていません。しかし、三人に一つずつ仮小屋をつくろうと提案したとき、イエスをモーセと預言者エリヤを同列においています。ペトロの理解は不足していますので、神が「彼に聞きなさい」と教えているのです。イエスこそ旧約のモーセの律法も、エリヤの預言もすべて成就するものであると明らかにされました。

 「そして、弟子たちは聞いてひれ伏しました。」この描写はマルコにもルカにもありません。マタイは、神の声に対する弟子たちの反応に加えて、恐れる弟子たちに「近づき、彼らに手を触れ」ました。そして言いました。「起きなさい」と。この「起きなさい」は、イエスの復活を表わす9節の「人の子が死者の中から復活する」の復活の「エゲイノウ」と同じ単語が使われています。7節の「起きなさい」は、9節の「起こされる」までと同じ語を用いることによって、変容と復活を結びつけようとしているのではないでしょうか。

 イエスは「近づく」という行為は、2818にもあります。そこでは、「復活のイエスが弟子たちに近づき、世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束して弟子たちを宣教へと派遣しました。イエスの変容はイエスが神の子であることを明らかにするだけではなく、山を下りて宣教という日常へと戻って行く弟子たちを励ましました。

 わたしたちは、「わたしは、いつもあなたがたと共にいる。」という「インマヌエル」に励まされ、神のことを思わずに人間のことを思っている姿を人間の思いを捨て、神の思いを自分の思いとして背負い続けて、主イエスの十字架への道をともに歩んで行くことができますように祈ってゆきましょう。



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