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説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2023年2月12日(顕現後第6主日) 

新しい教え

マタイによる福音書5章21-24、27-30、33-37
 

 

 祝福の丘での説教は、「八つの幸い」に続いて、「あなたがは、地の塩、世の光」 の教えを語られましたが、そのあとは、その場所で祝福を受けた人々に求められている生き方について教えられています。

 これは、イエスが、さまざまな局面で語った教えを集めたものです。初代教会の中で新しく信徒として、群れに加えられた人々に対して、キリスト者としての新いい生き方の方向を示しています。

 今日の福音は、21-24節、殺してはならない27-30節、姦淫してはならない、33-37節、誓ってはならない。という三つの教えが選ばれています。

 昔の人々の言い伝えがあります。その律法の前提には神によって救われた民が神に対して、また人に対してどのように生きるべきか、ということです。

 ご一緒に見ていきましょう。21節に、昔の人々は「殺すな」という掟に対して、イエスは「兄弟に向かって、腹を立てる者は、裁きを受ける」という解釈を付け加えました。彼らにとって、「殺すな」という掟に抵触する犯罪行為は、凶器を使った殺人である、という枠に囚われていました。このように掟を狭く限定しておけば、自分を正しい者として保つことがしやすくなります。これに対して、イエスは「殺すな」という掟を通して、神の呼びかけを聞き取ります。慈しみを知るイエスは、「兄弟に腹を立てる」ことも、「バカという」ことも、凶器を使った殺人と同じように、人のいのち、人格を犯す行為だというのです。自分の正しさに固執し、それを固持しようとする者によって、掟はねじ曲げられ、曇らされてしまっています。

 23節では「兄弟が自分に反感を持っているのを思い出したなら」と言います。自分が人に反感を抱いているのはよくないというだけでなく、人が自分に反感を抱いているのなら、自分の方から和解のために相手のところへ行きなさい。そして、祭壇に供え物をささげなさいということです。

 二つ目の「姦淫するな」ですが、「姦淫」と訳された言葉は、男性にとっては他人の妻と性的関係を結ぶことを意味していました。女性にとっては自分の夫以外の男性と性的関係を結ぶことでした。

 実はこの個所の「他人の妻」と訳された単語は、言語では「ギュネ―」で本来は女性一般をさす言葉です。ここでわざわざ「他人の妻」と訳すのは、姦通の相手であるから「他人の妻」であるはずだと言いう解釈に基づいていると思われます。(
岩隈の『ギリシャ語辞典』では「妻」ともあります。)疑問を抱きながら他の聖書では、同のように訳しているか比べてみますと、フランシスコ会訳、新改訳、岩波訳も新共同訳以外、全部「女」と訳しています。そして、わたしたちの聖公会では、公祷の礼拝で用いても良いことになっています協会共同訳を開いてみますと、「女」と訳されています。だから今、使っている聖書だけが「人妻」と訳されています。イエスが教えていますのは、
他人の妻をどう見るのかではなく、すべての女性、未婚の女性であれ、自分の妻であっても、女性に対してどのような見方をするかということです。

 ここでも、イエスは実際の行為を行わなくとも「みだらな思い」で女性を見るならば同じことだと言います。イエスは、心へと視点を移し、姦淫への思いが心にあるとき、すでに罪を犯していると説きました。イエスは「みだらな思い」をのり越えて、男性が女性を本当に人間として尊重する目で見るように求めています。ここに男女の新しい関係性を示しているのです。

 そして、わたしたちにとって、厳しい言葉が続きます。右の眼が躓かせるなら抉り出して捨ててしまいなさい。右の手が躓かせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。とおっしゃいました。それらを取り除きなさい。取り除けば、ゲヘナに行かないのです。

 三つ目の「偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ」という昔の人の口伝律法に対して、「一切誓いを立ててはならない」を付け加えられました。ここでいう「誓うな」の真意とは何でしょうか、ここでは、単純に神に心を向けることです。神との間に完全な信頼関係があるなら、もはや誓う必要ではないからでしょう。人と人においても誓うということは、人間関係になんらかの亀裂が生じているしるしであります。また、神を引き合いに出して誓うことは、神を利用することであります。神の国が到来していることは、人間を真実な者に変え、「然り」「然り」か「否」「否」と言いなさい、と。誓いを不必要にします。イエスに委ねるのです。

 ファリサイ派や律法学者のような義ではなく、イエスが求める「義」しさとは何でしょうか。それは戒めに込められた神の思いを聞き取り、その声に応じた行動をとることです。

 ともすれば、掟の本来の意味を忘れて、守るという外面や世間体に囚われています。

 しかし、「殺すな」という、戒めに神の思いを受け取るならば、おのずと「兄弟に馬鹿と言わない」という生き方になります。イエスが求めるのは、その本来の意味に目を向けて生きることです。

 イエスが「まったく誓うな」と言えるのは、誓う必要なない現実がイエスとともに来ようとしているからです。

 イエスの連れてくる神の国は、もはや誓いを立てる必要がありません。信じる人を真実な者に変えてくださいます。イエスによって罪が赦され、神の国に招き入れられた者は、感謝の内に新しい掟を生きることができるのです。それこそは、神が行わせる正しさであります。わたしたちは詩と賛美をもって歩んで行きましょう。



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