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説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2023年1月8日(顕現後第1主日) 

イエスの洗礼

マタイによる福音書3章13-17
 

 

 東の3人の博士、すなわち異邦人に神の子が人として、現れました顕現日が終わりました。カトリック教会では顕現日は公現祭として、先の主日にまとめています。

 今日は、主イエス洗礼の祝日の主日として聖餐式が行われます。イエスがヨルダン川で洗礼を受けたのは、イエスがこの地上に誕生してから30年もたった後の出来事ですが・・・、 また、この出来事はイエスの活動の出発点でもあります。福音を告げるイエスの活動の歩みの初めです。

 マタイ福音書は32節で洗礼者ヨハネの「悔い改めよ、天の国は近づいた」というメッセージとイエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けたあと、宣教を開始する最初の一声を417節のメッセージを「悔い改めよ、天の国は近づいた」、という、まったく同じ言葉で紹介しています。

 35節に「そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。」とあります。

 この出来事の流れの中でイエスもヨハネから洗礼を受けることになりますが、その前に、ヨハネとイエスのやり取りがあります。

 ヨハネは、自分こそイエスから洗礼を受けるべきであると言って、イエスに洗礼を授けることを拒みます。イエスはヨハネに今は、止めないで欲しいといいます。イエスがメシアであることを認めたヨハネに対する神からの応答であります。ヨハネの告白に対して、神がイエスの正体、すなわち神の子であることを明かしたのです。

 イエスは「正しいことをすべて行うのは、我々、というのはヨハネとイエスにふさわしいことです」と言います。マタイ福音書は洗礼者ヨハネとイエスの共通性を強調していると言えるでしょう。二人は神の同じ一つの計画の枠内にいるのです。

 洗礼とは何でしょうか、「洗礼」はギリシア語では「バプティスマ」で、元の意味は「水に沈めること、浸すこと」です。洗礼者ヨハネが行なっていた洗礼も、初代キリスト教会の洗礼も、人の全身を水の中に沈めるものでした。いったん水の中に沈み、そこから立ち上がることは、古い罪の自分に死んで、新しい神の命に生きることを意味しています。洗礼者ヨハネにとって、洗礼は何よりも回心(悔い改め)のしるしでした。イエスは罪なき方であったのに、他の人々とともにこの回心のしるしである洗礼を受けました。」とヨハネの洗礼の場面が描かれています。そこにイエスの、罪びとである人間との深い繋がりを見ることもできるでしょう。人々とともに苦しみの水の中に沈み、人々とともに神の命へと変えられます。

 きょうの福音では、洗礼を受けたという事実と、もう一つ大切なのは、イエスは洗礼を受けられ、水の中からあがった直後に起こったことです。今、洗礼が終わった後の出来事をご一緒に確認していきたいと思います。

 16節の洗礼の出来事の続きに、天が開いた(裂けた)、聖霊がイエスに降り、(イエスがみた)、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者」という声が聞こえました。「天が裂け」というのは、神がこの世界に介入してくることを表す表現です。

 イザヤ6319節には「あなたの統治を受けられなくなってから/あなたの御名で呼ばれない者となってから/わたしたちは久しい時を過ごしています。どうか、天を裂いて降ってください。御前に山々が揺れ動くように」という言葉があります。

 マタイに戻ります。「聖霊が鳩のように」は、「鳩」が翼をひろげて舞い降りるときのように、聖霊に覆われるイメージを表す表現です。

 マタイでは、聖霊が降るのを見るのはイエスご自身ですが、声の方は「これは」という三人称で周りの人にも聞こえたような表現です。つまりこの出来事は、一方では、洗礼者ヨハネをはじめ、その場にいた人々が見聞きすることのできる出来事だったようでもあり、もう一方ではイエスの内面的な体験と見ることもできるようなものだとも言えそうです。この出来事には、イエスが神の子として現されたという面、と同時に、イエスが神の子としての使命を特別に自覚したという面の両方があると考えたらよいかもしれません。さらに、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という言葉の背景には、イザヤ421節以下があると言われています。

 この「愛する子」という言葉に、イエスが神の子として、主の僕としての使命を生き始めることが示されているわけです。また、「あなたはわたしの愛する子」この言葉は、ある意味でわたしたちすべてに向けて語られている言葉だと言えるでしょう。わたしたちの洗礼は、わたしたちが「神の愛する子」とされることを表しています。洗礼は、キリスト教を背負って立つことの出発点でもあるのです。キリスト教を背負うとは福音宣教の使命に遣わされることです。聖書の多くの箇所では、弱い人間が神から与えられた使命を果たすことができるように、神の力である聖霊が与えられます。わたしたちは、どんなときにそう感じることができるでしょうか。「自分が神に愛された子であると深く受け取ること」、「聖霊に支えられて神の子としてのミッションを生きること」もちろん、それは秘跡の中だけのことではないはずです。わたしたちは、悔い改めて洗礼によって新たにされ、堅信によって聖霊を送り込まれ、主に導かれ福音宣教の業に参与することができるのです。



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