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説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2022年12月18日(降臨節第4主日) 

降誕前夜

マタイによる福音書1章18-22
 

 

 降誕日直前の主日には、イエスの誕生に直接関係する福音書の箇所が選ばれています。A年はマタイ福音書で、幼子の誕生がヨセフに告げられる場面が描かれています。マタイによる福音書はイエス・キリストの系図として、アブラハムからヨセフまでの系図を伝えています。また、使徒書では、きょうの日課のローマの信徒への手紙一章2節からよまれました。「この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束さたもので、み子に関するものです。み子は肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中から復活によって神の子と定められたのです。」と述べられています。

 肉によればというのは、マリアの夫ヨセフがダビデ家の子孫です。そのヨセフの家系にイエスが入れられることによって、ダビデの家からメシアがうまれるという神の約束が実現するのです。

 パウロは、み子が「肉によればダビデダビデの子孫から生まれた」述べることによって、イエスが完全な人間性を備えていることを表しています。そして、人間の限界を超えて、死者からの復活を経験しましたので、復活とは人間の理解を越えた聖なる霊による出来事になります。イエス・キリストの人性に対して聖性ということでしょうか。

 先ず、聖書によればと記されているのは、預言者イザヤに語られた言葉であります。このイザヤ書の書かれた時代背景を知らなければ16節の記事は分かりにくいと思います。アハズ王とは、紀元前731年ごろに20歳で即位した南ユダ王国の王ですが、即位二年後の前733年に難しい事件に遭遇してしまいます。それは「シリア・エフライム戦争」でした。南ユダ王国のアハズ王に語りかけたイザヤの言葉を伝えています。この戦争はパレスチナの支配をもくろむアッシリアに対抗して、シリア(アラム)とエフライム(北イスラエル)とが組んで、反アッシリア連合を組織しました。それに参加しようとしないアハズ王に対して退位させ、傀儡政権をつくろうとしていたのです。

 アハズ王は、神のしるしを求めないで、アッシリアに援軍を求め、アッシリアの神の祭壇をエルサレム神殿に置く羽目に陥ってしまいます。信仰を捨てて、アッシリアの神を礼拝しました。それでも神はしるしを与えています。いずれ気づく時が来ると信じていたからです。イザヤ書14節です。「それゆえ、わたしの主が御自ら あなたたちにしるしを与えられる。みよ、おとめが身ごもって、男の子を生み、その名をインマヌエルと呼ぶ」と記されています。一人の若い女性から男の子が誕生し、「インマヌ・エル」と名付けられます。誕生そのものではなく、「神は 私たちとともにおられる」ということです。男の子の誕生に神がともにおられるのです。

 そこで、きょうの福音書に戻りますと、18節に「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」とあります。ヨセフはマリアのことを表ざたにしないように「ひそかに」縁を切ろうとしましたが、天使が夢に現われて、「ダビデの子ヨセフ、恐れずに妻を迎え入れなさい。マリアは聖霊によって宿ったことを告げます。」

 ヨセフはマリアを信頼していたので、この妊娠に神の働きを感じました、

 21節で「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名づけなさい」。その「イエス」と言う名前は、旧約聖書で言えば「ヨシュア」という名にあたります。ユダヤ人の間ではよくある名前ですが、ヨーロッパでもよくあります。マタイ福音書はこの「イエス」という名の中に重要な意味を見いだしています。なぜならイエスは「主は救い」「主は救う」という意味なのです。

 この21節の言葉は、23節で引用されるイザヤ714節「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」という、この預言の言葉がイエスで実現したとマタイは見ています。

 ここで「おとめ」と訳された言葉は、マタイのギリシャ語では「パルテノス」ですが、元のイザヤ書のヘブライ語は「アルマー」という言葉だそうです。ヘブライ語から訳された70人訳のギリシャからマタイが引用しています。70人訳はご存知の通り離散の民、ディアスポラのために訳されたものです。時代的に新約につなげる大事なものです。

 パルテノスは「処女」を意味しますが、「アルマー」は単に「若い女」を意味する言葉です。もちろん、イエスの誕生物語を伝えるマタイも、ルカも「パルテノス」を「処女」の意味で受け取っているようです。

 処女であるマリアは人間的には子どもを産むことができないはずですが、そこに、人間の無力さと、その中に働く神の力の対比がなされ、その降臨の子どもが人の力によるのではなく、神の力、すなわち聖霊によるのだということが強調されているのです。マタイは「インマヌエル」をイエスの「呼び名」ではなく、イエスの「本質を表す名」だと言っているのです。「インマヌエル」はヘブライ語で「神は我々と共におられる」あるいは「我々と共にいる神」の意味です。マタイ福音書はこの「インマヌエル」の物語から始まり、2820節で「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」というイエスの約束で結ばれています。「神が共にいる」、「イエスが共にいる」ということがこの福音書全体のテーマだと言ってもよいでしょう。

 いつどんな時イエスがともにいてくださることを感じるのでしょうか。それは、イエスを信じる者が二人又は三人がわたしの名によって集まるところにはわたしもその中にいるという約束があります。 また、聖餐のとき、パンとぶどう酒の形のご聖体の中にいるという約束、これも2000年にわたって数多くのキリスト信者を支え、励ましてきたことでした。それは特に困難や苦しみの中で感じられる支え・励ましかもしれません。キリストの死と復活を思い起こし、それに深く結ばれて、キリストと一つになり、キリストを中心として、人と人とが一つになる。また皆さんは主日聖餐式が始まる前にこの聖堂で、一週間の生活を振り返り、懺悔をし、ご聖体の前で人一人が礼拝を待ちながら祈り、心を整えます。一人静かに祈る中でイエスに出会います。そのような体験がわたしたちの中にあるはずです。

 わたしたちはクリスマスを2019年前の一人の男の子の誕生日として祝うのではありません。イエスの降臨という出来事の意味を受け止めるのです。イエスが今も生きていることを祝うのです。神のひとり子が人類の一員となり、この方において神はわたしたちとともにいてくださる神になってくださった、それはどれほど力強い支え・励ましでしょうか。インマヌー・エルと歩んで行きましょう。



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