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説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2022年12月4日(降臨節第2主日) 

主の道を準備せよ

マタイによる福音書3章1-12
 

 

 冒頭のこの句によって時間が設定され、終末の時(メシアの時代)の始まりが宣言されています。救いの歴史は頂点に差しかかり、決定的な救いの時を迎えようとしているところです。

 ここに、メシアの到来を預言し続けた旧約時代最後の預言者として洗礼者ヨハネが登場することになりました。彼は「荒れ野」で声を上げました。

 荒れ野は、余計なものが一切はぎ取られ、人の心の真実が表れる場所です。そこでヨハネは「悔い改めなさい。なぜなら天の国は近づいた」と、人々に悔い改めを呼びかけていますが、悔い改めの必要をなぜ、説いているのでしょうか。それは、「天の国」が近づいているからです。

 「悔い改める」とは、生き方を改めることです。聖書では「天の国」の到来との関係で語られていますから、自分の「内」に目を向けて反省することではありません。

 自分の内面ではなく「外」に、すなわち「神の支配」に目を向けて、そこに自分をゆだねることを示しています。

 神が地上に支配を及ぼそうとしているという現実に目を向け、自分の生き方をそれにゆだねることがヨハネの言う、悔い改めです。そこからマタイ5-7章の「山上の説教」のような新しい価値観と生き方が生まれてくることになります。神に委ねて、神の支配のもとに生きるとき、日常の具体的な生活も変えられていくのです。    

 ここに登場したこの洗礼者ヨハネの役割(3-4節) とはどんなことでしょうか

 「駱駝の毛からの衣・革の帯・いなごと野性の蜂蜜」 当時の人々は、メシア(救い主)の到来に先駆けてエリヤが再来すると考えていました(マラ3:23)。

 洗礼者ヨハネこそメシアに先がけて現れる再来のエリヤだと主張しています。 

 それに対して人々の応答(5-6節)はどうでしょうか

 人々は「悔い改めなさい」という洗礼者ヨハネの呼びかけに応えて集まり、罪を告白して、洗礼を施されました。

 罪とは、神に背を向けて生きてきた人間の姿です。神の支配が始まろうとしている今、この現実の姿をなくす必要があります。そのために洗礼者ヨハネは、悔い改めの具体的な意思表示として、彼らに神から離れていたという罪を告白させ、洗礼を授け、人々の生きる道を神へと真っ直ぐに向けさせるのです。

 悔い改めにふさわしい実(7-10節)

 集まってきたすべての人々に語りかけていた洗礼者ヨハネは、7節からは相手をしぼり、「ファリサイ派とサドカイ派の人」に話しかけました。ファリサイ派は、律法に新たな解釈を加えることで律法に従った生活を実現しようと考えていました。一方、保守的な上流階級に支持者を持つサドカイ派は、変化することなく、伝統的な生き方に固執していました。

 彼らの中には洗礼者ヨハネのメッセージを真剣に受け止めた者もいたでしようか。

 洗礼者ヨハネは、「蝮の子らよ」と、彼らへの非難が込められています。

 神に従った生活を送っていると自負していたファリサイ派やサドカイ派は神の裁きが自分たちに下るとは思っていません。しかし、悔い改めの必要性を認めない彼らこそ、神の裁きの対象になる、と洗礼者ヨハネは警告します。

 アブラハムはユダヤ人が最も尊敬する父祖であります。それは自分たちが神によって選ばれた民であることのしるしでありました。ファリサイ派やサドカイ派の人々は、自分たちは選ばれた「アブラハムの子孫」だと誇っていました。しかし、ヨハネは彼らのことを「蝮の子ら」と呼ぶのです。彼らは宗教的な生き方を装っていますが、そこから生まれる実は、傲慢と独善という毒の実でしかないからです。石ころからでもアブラハムの子孫を起こすことができる神から見れば、血筋は何の役にも立たないのです。

 8節の「悔い改めにふさわしい実を作りなさい」、「良い実を作らない木」が切り倒されるのです。と、ファリサイ派とサドカイ派の人への具体的な戒めが語られています。

 「私たちは父アブラハムを持っている」と誇っても無駄だ、なぜなら神は石ころからでもアブラハムの子を造りさすことができる、と洗礼者ヨハネは説いています。ユダヤ人であることで救いを保証されるのではありません。だから、ヨハネはファリサイやサドカイ派の人々に「悔い改めにふさわしい実」を結ぶように要求します。この実とは、神の支配に身をゆだねたことを態度で表すことです。つまり「洗礼」を意味しています。人は誰でも「罪」という神との間に生じたずれを持っています。どんなに努力をし、どんなに良い行いを積んだとしても、そのままでは神に喜ばれる実を結ぶことはできないのです。人がまずなすべきなのは、生きる向きを変え、神との間にある溝をなくすことです。すなわち洗礼を受け、神に身を委ね、神の支配を身に受けることであります

 霊と火による洗礼(11-12節)

 11節では、ヨハネの洗礼とメシアの洗礼の違いが対比しています。ヨハネの授ける洗礼は「水」によるものであり、「悔い改めのため」であります。つまり始まろうとしている神の支配を受け入れ、生きる姿勢をそこに合わせたことを示す洗礼だと言われています。それに対して、来るべきメシアの洗礼は「聖霊と火」によるものであります。つまり、この洗礼はもはや悔い改めのためではなく、人を救うためのものであります。ヨハネの授ける洗礼は、備えるためのものであります。

 ヨハネは収穫のたとえを用いて説明します。その方は箕を手にして「麦」を倉に納め、「殻を消えることのない火で焼き払われ」る。脱穀した穀物を箕にすくい、風に向かってそれを投げ、軽い「もみ殻」と重い「実」を分けるのです。麦ともみ殻とは、人と人の間のことに留まらない。来るべき方は一人の人間の中にある麦ともみ殻をもふるい分けるのです。殻を除かれた人は、祝福のうちに生きることができるようになるといいます。

イザヤ111-10

 ダビデ王朝の現実の王に失望したイザヤが、主の霊に満たされた理想の王がダビデの子孫から生まれることを語った有名な箇所であります。「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで…」で始まり、「エッサイの根はすべての民の旗印として立てられ、国々はそれを求めて集う」で閉じられています。

 エッサイとはダビデ王の父の名前ですが、この預言を語ったイザヤは紀元前8世紀の人でありますから、エッサイやダビデが生きた時代よりも200年ほど後の人です。

 ここでの「エッサイの株」とか「エッサイの根」は、ダビデ王朝を指しています。ダビデ王朝が木にたとえられていますが、「株」とか「根」と表現されていますから、一度、切り倒された木のことだと思われます。ダビデ王朝は、いったんは倒れるが、しかし根が残った株から若枝が生えでるように、よみがえるとイザヤは預言しているのです。

 王朝をよみがえらせる「若枝」は、通常の王とはまったく異なっています。なぜなら、6-8節 「狼は小羊と共に宿り、…幼子は蝮の巣に手を入れる」とありますが、このような絶対平和は普通には考えられないことだからです。

 彼が絶対平和を到来させることができるのは、ずば抜けた能力に恵まれているからではないのです。確かに4節に「その口の鞭をもって地を打ち、唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる」とありますように、他者に対する圧倒的な力をもっていますが、その源泉は「主の霊」にあります。

 このような霊に満たされなければ、託された使命を果たすことはできないのです。それをわきまえる彼は、「主を知り、畏れ敬う霊」を神に求めて、与えられます。彼にはこのような「主の霊」がとどまっているので、理想的な政治を執り行う王となります。しかし、現実に到来した「メシア」は、人々の罪を代わりに背負って苦しむことが理想の裁きだ、と考え、十字架に上ります。 

 人の心には、すべての誇りや虚栄が無意味となってしまうような「荒野」があります。それは虚飾によって覆い隠していたものがあらわになる世界であります。しかしそこにイエスを迎え入れるとき、人の内にある余計なもみ殻は焼き尽くされ、実は聖霊の風に祝福されてそこに留まります。従って、イエスから吹く風によって洗われることは、実を結ぶことです。ヨハネの授けた洗礼とは、身も心も神へと開き、イエスがもたらそうとしているこの聖霊の風を帆いっぱいに受け止めるための備えをしっかりとし、そこに錨をおろしてとどまって実を結ぶのです。わたしたちは、そこに留まり、日々の生活の中に主がともにおられますようにお祈りします。


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