header
説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2022年11月20日(降臨節前主日) 

王なる主イエスは、パラダイスに

ルカによる福音書23章35-43
 

 

 王であるキリストの祝日は教会歴最後の主日にあたります。「王」というのは現代日本のわたしたちには馴染みにくいイメージですが、この祝日の本当のテーマは、キリストがすべてにおいてすべてになる、終末における救いの完成といえるでしょう。

 キリストが「普通の人間の王とどのように異なる王であるか」を表す箇所が選ばれています。わたしたちは王という呼称には若干違和感を覚えます。

 きょうの聖歌72番は降臨節第2主日の日課で、終末を現わす王なるキリストの主日で、誕生を賛美する歌で、申し訳ないですが、あえて、この詩に合わせますならば、きょうの日課のエレミヤ書で、わたしは「5.ダビデのために正しい若枝を起こす。」とは、ダビデの子孫から出現するメシアであります。聖歌の詩で「エッサイの根」、と言われますのは、イエス・キリストを指すであろう、と考えられます。エレミヤ書の「王は治め、栄え この国に正義と恵の業を行なう。」とは、わたしの救い、わたしの喜びをすべて神は芽生えさせてくださるのです。「6.彼らの名はわれらの救いと呼ばれる。」と記されています。この言葉は「王」という言葉から来ていて、「王であること、王としての統治、王が治める国」の意味になり、ダビデの末裔イエス・キリストが王なる国の王なのです。

 

 そもそも「神」が、真の王だと考えているイスラエルには、人間の王は不必要だと思われていたので、王制がありませんでしたが、紀元前11世紀末ペリシテ人がパレスチナの覇権を求めはじめ、イスラエルも伝統的な価値観を放棄せざるを得なくなりました。しかし、きょうの朗読にもみられますように、王は預言者の厳しい批判にもさらされることになりました。

 さて、きょうの福音は、イエスが十字架にかけられる場面です。ルカ福音書の受難物語はマルコ福音書の受難物語をもとにして、ルカが持っている固有の資料・伝承を挿入する形で編集されています。マルコ、マタイでは、イエスとともに十字架にかけられた犯罪人が二人ともイエスを罵った、となっていますが、ルカは別の伝承を採用しています。ルカは、二人のうちの一人が回心し、イエスに救いを願った、という話を伝えています。

 「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」(40-41)。とあります。ここにはルカ福音書の受難物語の1つの特徴が表れています。それは、イエスが罪のない方であることを強調しています。ユダヤの最高法院でイエスは「自分を神の子とした」という冒の罪(2270-71)を着せられました。

 ローマ総督に対して「民衆を扇動し、皇帝への納税を禁じた」と訴えられました。しかし本当のところ、イエスは無罪なのです(ルカ23414-152247節参照)。ルカは「彼は不法を働かず、その口には偽りもなかったのに・・・」(イザヤ539)という苦難の主のしもべの姿をわたしたちに思い出させようとしているのかもしれません。

 ここに登場する「議員たち」はユダヤ人の最高法院の議員たちのことです。「兵士たち」は処刑を担当したローマ人の兵士です。2人の「犯罪人」は十字架刑を受けるほど重大な犯罪を犯した人です。35-39節で、彼らがイエスに向かって言ったことは、お前が神の子なら「自分を救ってみろ」ということでした。イエスはそれに応答しませんでした。イエスは自分を救うことができなかったのでしょうか? そうではなく、イエスが神の子キリストとして、人々の救いのためにご自分の命を差し出されたと考えれば、イエスは自分を救うことができたのにあえて自分を救わなかったのだと考えるべきでしょう。そうしなかったゆえにメシアなのです。もちろん、これが伝統的なキリスト教の考え方です。
 「自分を救わない」あるいは「救えない」苦難のなかにあるイエスの姿に、「暴力によって苦しむすべての人」との連帯の姿を見ることはできないでしょうか。

 神の望みは人が暴力から解放され、平和のうちに生きることであるはずです。イエスがご自分に振りかかる権力からの暴力、民衆からの暴力をどう受け止めたのでしょうか、これは今のわたしたちにとって切実な問いではないでしょうか?

 暴力は人を肉体的に傷つけるだけではありません。暴力は人を孤立させ、精神的に絶望の淵にまで追い込みます。イエスも表面的には神から見捨てられ、人からも見捨てられたような姿になりました。暴力のもう1つの作用は、人から力を奪ってしまうことです。十字架のイエスはあらゆる力を奪われて何もできなくなってしまったかのようでした。そういう意味で、イエスはすべての暴力による被害者と同じ体験をされたのです。

しかし、イエスには特別なことがありました。

 特にルカ福音書は、イエスが最後まで神への信頼と人への愛を持ち続けた姿を伝えています。イエスは絶望や憎しみに支配されることなく、出会ったすべての人、自分を十字架につけた人々をも愛し抜かれるのです。無力な十字架のイエスの中にこそ、人を受け入れ、他者を思いやり、自尊感情を高め、愛と連帯によって本当の意味で暴力に打ち勝ち、暴力の連鎖を断ち切る道を見つけることができるのではないでしょうか。イエスの十字架の愛の中にこそ、それはあるのです。

 もう一人の犯罪者は、彼をいさめます。「わたしたちは罪を犯した。それに相応しい罰を受けている。この方は何も悪いことをしなかった。」といいます。

 この犯罪人は、自分もイエスも十字架で死を迎えることを知っていますから、このイエスの王国が死を超えて実現すると考えていることになります。その中で「あなたの王国に入るとき、わたしを思い出してください」と願うのです。

 43節「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」の「楽園」は、ギリシア語で「パラデイソス」です。天地創造の神は東の方にエデンの園を置かれました。これこそはまさに楽園です。また、Uコリント122節に第三の天に引き揚げられた人のことが記されています。これは、4節での「人が神と共にいる調和に満ちた状態だ」と言ってもいいでしょう。そして、イエスがそれを約束するのは「今日」なのです。 

 苦しみのどん底の中で、イエスが共にいてくださることに気づいたとき、そこにもう「バシレイア・王国」が実現している、そこが「パラダイス・楽園」になる、と言うのがルカによる福音書の視点でしょう。イエスが共にいてくださる。その状況こそが、あなたは今日、パラダイスにいるのです。今週の歩みも主イエスと共に歩んで行きましょう。


このページトップ」へ戻る