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説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2022年11月13日(聖霊降臨後第23主日) 

終末の偽預言者たち

ルカによる福音書21章5-19
 

 

 教会の暦で、特定28、29主日は、王であるキリストの祝日は「終末主日」と呼ばれています。これらの主日は「終わり」ということにわたしたちの心を向けさせます。
 マタイ、マルコ、ルカの共観福音書では、イエスの活動の最後に終末についての説教が置かれています。マルコとマタイでは、終末についての説教はイエスが神殿を去った後、オリーブ山で語られていますが、きょうのルカ福音書では神殿の境内で語られたことになっています。

 ルカ福音書にとって神殿は、ルカ249節のイエスの「父の家」、1946節の「祈りの家」であります。だから神殿は最後まで、イエスの活動の中心的な場だったと言えるでしょう。

 終末のしるし(7-118節の「わたしの名を名乗る者」とは、「わたしがキリストだ」と主張する「偽キリスト」が現れることを語っています。

 きょうの福音は、世の終わりそのものというより、それに先立つ混乱の時代について語っています。イエスは世を去る前に、将来起こるであろうことについて語りました。具体的には、戦争、暴動、民族紛争、大地震、飢饉、疫病、などについてです。それらは、福音書が書かれた1世紀後半にはすでに現実になっていました。エルサレム神殿は、紀元70年のユダヤ戦争によって完全にローマによって壊滅させられました。ヘロデ大王による改築が完成したのは64年ですので6年間存在しました。そもそもこの神殿は、ソロモン王によって建立されたものでした。紀元前515年に再建されました。きょうのマラキ書が記されたのは、この後のようです。

 マラキは祭儀がおざなりにされていることを嘆き、批判しています。神殿は再建されたが、約束されていた栄光は見えない。そのため人々の間では、信仰への熱意が冷め、自己中心的な生き方が広がりました。マラキはその中で神への信仰を取り戻させようとした預言者です。

 マラキ書319節に「見よ、その日が来る」と強調しています。「その日」とは神が介入する日のことでありますが、それはいつ起こるのか、分からない。その日を特定することができません。むしろ神に絶大な信頼を置く人にとっては、それはいつであってもかまわないのです。その日を信じるがゆえに、遠い日、近い日を不安に思わないで、今の現実の生活に一所懸命に生きるのです。

 そして、マラキの時代の状況と、紀元後1世のイエスの時代、そして21世紀に生きているわたしたちにとっては、これらの現象は世界に目を向けるならば、その時代と同様なことが起こっています。さらに切実な、深刻な現実を見てしまいます。

 今日でも、人々の不安や怖れにつけこんで「ここに救いがある、これこそが真の救いだ」と主張するような偽りの情報が現代のわたしたちの周りにもたくさんあるのではないでしょうか。

 人々の危機意識を煽り立てて、信者を集めようとする怪しげな宗教もあるかもしれません。世の終わりについての聖書の教えは、そういうものとは無縁です。  

 イエスは人々の恐怖心を煽るためにこれらの言葉を語られたのではありません。イエスが語るのは、たとえどんなことが起こっても「惑わされないように」(8)ということです。

  イエスは、そのための最良の準備は「弁明するために準備しないことを心に置く」ことだと語ります(14節)。なぜならその時、イエス自身が「言葉と知恵を授けてくださるからです(15節)。イエスに信頼すれば、「対立する者たち」の誰もが「反対したり、反論することができない」言葉と知恵が与えられ、イエスを証しする者とされるのです。神に信頼する者はどのような困難に出会っても、それに耐えることができるのです。そこで得られる大切なものは、決して奪われることのない本当に大切なものは、永遠の命です。

 聖書の終末論は、目に見えるすべてのものは「過ぎ去るもの」「滅びゆくもの」であることに気づかせ、何が本当に永遠のものであり、滅びないものであるかに気づかせてくださいます。
 そして、終末を説くのは、今を大切に生きるためです。
マラキは終わりの日に「高慢な者、悪を行う者」(19)の滅びがあると説きますが、終末には破滅や裁きという暗い未来を想像しますが、マラキが「わが名を畏れ敬う人」(20)の救いを語るように、聖書の語る終末は決して滅びではありません。むしろ、選ばれた者たちの救いの時であります。

 マラキは確かに将来の「その日」について語りますが、その目的は現在をどのように生きるべきかを説くためです。「その日」の到来に目を向けるとき、「神に仕えることはむなしい」という思いに囚われる心、なえやすい信仰心を奮いたたせ、神に従う生き方に留まることができるのです。

 神の計画は救いにあります。その神はキリストを信じる者を守ってくださいます。それをわきまえる者は終末への恐れから解放され、「今」の与えられたときを、神を信頼して生きる時とすることができるのです。

 聖書が終末を語るのはおびえさせるためではなく、わたしたちの人生にも必ず「終わり」が待ち受けています。その終わりに向かってどう生きるのかです。イエスの生き方はわたしたちに問いかけています。キリストを信じる者の「忍耐」は、さらに優れた「いのち」「魂」を獲得するために「神のもとに踏み留まること」と言うことでしょう。主イエスのみ跡を歩んで行きましょう。


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