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説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2022年11月6日(聖霊降臨後第22主日) 

サドカイ派との論争

ルカによる福音書20章27、34-38
 

 

 ルカ福音書1945節から、イエスはエルサレムの神殿で活動を始めました。きょうの福音は、当時の宗教的指導者たちと復活についての論争をしました。イエスと彼らとの対立の溝は深まるばかりで、これらの出来事からイエスご自身の受難と死の時が迫ってきています。

 サドカイ派は、ファリサイ派と並ぶイエス時代のユダヤ教の一派です。彼らの名「サドカイ」は祭司の名から来ています。彼らは当時のエルサレムの神殿の権威や富と結びついていた裕福なグループでした。

 ファリサイ派がモーセ五書(律法の書、創世記〜申命記)以外の預言書や口伝律法を大切にしていたのと異なり、サドカイ派はモーセ五書のみを正典と考えました。モーセ五書には「復活」について明確に述べている箇所はありません。イスラエル民族はもともと、人は死ぬと先祖の列に加えられる、そこは「陰府」と言われるところがあり、そこでは生きている人との関わりも神との関わりもなくなってしまう、と考えていたようです。
 旧約聖書の中で「復活」ということがはっきりと語られるようになるのは、ダニエル書の12章とマカバイ記Uの7章ですがマカバイ記は旧約聖書には含まれていませんが、日本聖公会では「旧約聖書続編」と呼ばれています。

 紀元前二世紀ごろユダヤ人に対する激しい宗教的弾圧がありました。エルサレムの神殿にはギリシアの神々の像が持ち込まれ、ユダヤ人は先祖伝来の伝統的な律法に従って生きることを禁じられました。「神に忠実に生きようとすればするほど、この世では苦しみを受け、殺されていく人もいる」という厳しい状況の中で、「死を越えて神が救いを与えてくださるという復活の希望」が語られ始められました。

 サドカイ派が復活を認めなかったのは、彼らが「モーセ五書」のみを正典と考えていたからですが、サドカイ派はこの世で満ち足りていた人々の集まりでしたので、先のことに夢を抱くこともありませんでした。彼らにとって神との関係は、神殿の祭儀の中で正しい生贄をささげているだけで十分でした。死を越えて神に期待するものなど何もなかったのです。だからサドカイ派はここで「復活」という考えの矛盾を指摘して復活を否定しようとしたのです。
 一方のイエスは、貧しい人々・苦しむ人々とともに生きてきました。彼らの苦しみと希望はイエスのものでもあったのです。そしてご自分の身にも危険が迫っていることをイエスは感じ取っていました。そのイエスにとって、復活とは死後の世界に対する興味や、宗教家の議論の問題ではなかったのです。

 きょうの朗読で省略された箇所では、レビラト婚について記されています。説明は週報の裏面に記しておきました。

 「めとることも嫁ぐこともない」(3436節)ということは、 サドカイ派は次の世でのあり方について誤解をしていますが、イエスはそれをまず指摘します。「この世の子ら」には死があるから、子孫を通して自分が生き残るようにと考えました。結婚をして、子供をもうける必要があります。しかし、「死者からの復活にふさわしい」者はもはや死ぬことがないので、めとることも嫁ぐことも不要となります。彼らは「天使と同じ」であり、「復活の子たち」でありますから「神の子たち」でもあります。

 サドカイ派の人たちは、この世の生活形態が死後にも続くと考え、重婚にならないかと心配しました。

 しかし、イエスは「復活の子たち」はもはや死を味わうことがなく、新しい存在であり、男も女も互いに兄弟姉妹として生きることになると教えます。「復活の子たち」は結婚を必要としないから、重婚の心配もなくなります。

 出エジプト記3章の神が燃える柴の中からモーセに語りかけたとき、アブラハムはすでにこの世から姿を消していましたが、神は「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と名乗っています。(出3:61417)。この表現は、過去において「アブラハムの神だった」ということではなく、今も「アブラハムの神」であり続けるということを意味します。

 なぜなら、神がアブラハムやその子孫たちと結んだ契約は有効であり続けます。彼らの死によってそれが途切れることはないからです。神は「生きている者の神」ですから、人は生きているうちに神との関わりを持つことができるのです。しかも、その関わりは神の誠実さのゆえにいつまでも続くのです。アブラハムやイサク、ヤコブは生前、神との関わりに生きていました。だから、その関わりは今も続くものです。神との関わりの中にこそ、彼らは今も生きています。イエスは復活の根拠を、神が人と結ばれた契約に置いていると言うことができます。

 この神は、いつも人々とともに、人を導き、どんな苦しみの中でも人が希望を置くことのできる神です。ここに復活の希望の根拠があると言えるのではないでしょうか。

 38節「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」の「生きている者の神」とは、生きている人間の支えとなり、希望となり、力となる神だとも言えるでしょう。逆に、現実の人間の苦しみや喜びと関係なく、人が儀式をとおして出会うだけの神は「死んだ者の神」と言ってもよいかも知れません。
 きょうの箇所は、わたしたちの神との関わりについて問いかけています。それは、「わたしたちは神にどのような希望を置いているのか、わたしたちキリストに結ばれて生きる者は、すでにその「永遠のいのち」を生き始めています。

 わたしたちは生ける神に希望をおいて、イエスとともに日々の生活を歩んで行きたいと思います。


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