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説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2022年10月30日(聖霊降臨後第21主日) 

徴税人とザアカイ

ルカによる福音書19章1-10
 

 

 ルカ福音書951節から始まったイエスのエルサレムへの旅も終わりに近づきました。エリコは、エルサレムまであと20キロほどのところにある街です。 

 先週は、義とされたのは、自分の正しさに自信をもつファリサイ派ではなく、頭をあげることもなく、ひたすら自らを低くして、祈り、神から憐れみを受け、義とされました徴税人の物語でしたが、きょうの話も徴税人の頭であるザアカイという人物が描かれています。

 徴税人はユダヤ人でありながら、このローマ帝国の徴税という仕事を請け負っていた人たちです。徴税人は、ローマ帝国から給与をもらっていたのではなく、ローマに納める税金に自分の取り分を上乗せして税金を徴収していました。それによって財を蓄えていたのです。そのために強引な取り立てを行なっていたようです。だから徴税人は、当時のユダヤ社会の中で明らかに「罪びとである」と人々からみなされた職業になっていたのです。

 ザアカイは「徴税人の頭で、金持ちであった」と紹介されています。彼は経済的には恵まれていましたが、心の中は、満たされるものではなく、空虚感もあったのでしょう。しかもユダヤ人社会の中では「神から程遠く、生きるに値しない最低の人間だ」という烙印を押されていたのです。

 もちろんザアカイ自身、自分の生き方は神に背くものだと感じていたことでしょう。ザアカイは「イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群集にさえぎられて見ることができなかった。それで・・・、いちじく桑の木に登った」(3-4) とあります。ザアカイはなぜイエスを見ようとしたのでしょうか。   

 イエスはエリコの近くでも「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」という人の目を癒した話などを聞いて好奇心を持ったとも考えられます。   

 群衆をかき分けて入っていくよりも、罪人とさげすんでいる周囲の人々の目を気にしていたのかも知れません。あるいは、それ以上に、自分のような罪びとがイエスに近づいて行く資格はない、と感じていたのでしょうか。それでも尚、ザアカイはイエスを一目見たいと思って木に登るのです。この人だったら、自分のどうにもならない思いを受け止め、理解してくれて、自分をこの行き詰まりから解放してくれるのではないか、という期待を持ったのかもしれません。

 「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」この言葉を聞いてザアカイはどう感じたでしょうか。周囲には大勢の人がいます。その中でイエスは自分にだけ声をかけてくれたのです。しかも「一緒に食事をする」だけでなく「あなたの家に泊まる」と言うのです。どれほど大きな喜びを彼は感じたでしょうか。

 なお、この「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」(5)は、「今日、わたしはどうしてもあなたの家に泊まらなければならない」とか「今日、わたしはあなたの家に泊まることになっている」とも訳すことができます。神の救いの計画であるから必ず実現するはずだということを示す表現なのです。 

 イエスはザアカイに対して「わたしがあなたに何かをしてあげよう」というのではなく「あなたの家に泊めてくれ」、つまり「あなたにはわたしのためにできることがある」と言ってザアカイに近づきます。イエスはどんなに人から仲間外れにされていても、その人の良いところを見てくださいます。あなたに潜在的に素晴らしいものがある、あなたには良い行いをする能力がある、とイエスは見ておられるのです。そういう眼差しに出会ったとき、人は本当に新たに生きる力を与えられるのではないでしょうか。

 「きょうあなたの家に泊まることになっている」というイエスの声掛けに、ザアカイは直ぐに従いました。この今日というのは昨日、明日と言う時間的な流れではなく、きょう泊まることになっているのは神の意志に基づく必然的な出来事なのです。人々は、徴税人のような罪人は最初に救われるわけがない。と考えています。彼らはイエスがザアカイの家に泊まるのを見て、つぶやきます。一方でザアカイは立ち上がって、立ち上がることは決意表明でもあります。半分を貧しい人に施します。イエスの言う、「この人もアブラハムの子なのだ」(9)という言葉は、「この人も神が祝福を約束してくださった人間なのだ」という意味です。徴税人の頭であっても救いから除外されているわけではないのです。職業によって救いから漏れないということです。

 ザアカイはイエスとの出会いによって、自分が生きるに値しない呪われた罪びとではなく、自分もアブラハムの子なのだ、ということに気づいていきます。そして、新しい神とのつながり、人とのつながりに生きていくことになるのです。イエスに出会ったことは、ザアカイの人生を根本から変えてしまいました。もちろん、ザアカイは徴税人であることをやめません。人々からの差別と偏見をこの身に引き受けていくわけです。ただ自分の置かれた場で精一杯、正しいことを行い、貧しい人を大切にして生きようと決意するのです。それでも罪びとの烙印を押されたまま生きていかなくてはならないでしょう。でも、彼はもはや「神に見捨てられた罪びと」ではなく、「神に愛された罪びと」なのです。イエスはその決意を受け入れました。「今日、救いがこの家を訪れた」と宣言しています。きょうの福音の箇所には「今日」という言葉が2回出てきます(5,9)。「今日」とは、今まさに人が神の愛とゆるしに出会うその時であり、今まさに神の救いが実現しているその時なのです。わたしたちも今、この神に出会い、喜びをもって日々歩んで行きたいと思います。


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