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説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2022年10月23日(聖霊降臨後第20主日) 

ファリサイ派と徴税人の祈り

ルカによる福音書18章9-14
 

 

 先週のやもめと裁判官のたとえ話。ルカ181-8節との関連を考えれば、祈りについての教えが継続していると言うこともできるでしょう。

 きょうの譬えには、神に祈りを捧げるために神殿にやって来た二人の人物が登場します。

 そのたたずまいと祈りの言葉は、実に対照的です。神殿の境内に入り、「異邦人の庭」を通り抜けると、一人の人は、至聖所のある本殿の前まで進み、人目につく所に立って、「神様、感謝します」祈り始めます。

 彼は立ったまま祈りをささげましたが、それはユダヤ人が祈りを捧げる時の普通の所作です。そのとききっと彼の目も天に向かってあげられていたと思われます。ファリサイ派はイエス時代のユダヤ教の一派で、律法と口伝律法を重んじ、忠実にそれを守ろうとしていたグループでした。

 「口伝律法」とは、聖書の律法を現実の生活に適用するために律法学者たちが作り上げた多くの解釈のことです。「ファリサイ」という言葉は「分離する」という意味の言葉から来たと言われます。

 彼らは自分たちを「律法を知らない汚れた民衆から分離した者」と考えていました。彼は十戒のすべてをきちんと守っていたので、自分は「奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でもない」と言い添えています。彼がそう付け加えたのは、自分は掟を厳密に守らずに汚れたままの状態で祈る人とは違うという自負心からでしょう。彼はさらに、週に二度も断食していること、また収入の十分の一税を払っていることを加えて、自分の正しさを神に訴えています。

 当時のユダヤ教では、週に二度の断食は必ずしも義務ではなかったし、収入の十分の一を納める必要もありませんでした。

 彼のこの祈りの内容からうかがい知ることは、彼が「守るべき掟」以上のことを実践しています。彼の正しさは、自己認識としても充分すぎます。

 「うぬぼれ」と訳されているペポイホータスは、辞書では信頼とか確信という意味になっています。原典に忠実に訳されている岩波訳では、「自ら恃み」と訳しています。「うぬぼれ」ではニュアンスが異なってきます。「うぬぼれ」はそんなに悪くない、というイメージですが、「自身を頼む」となると神から離れてしまうので最悪になります。

 ファリサイ派の人の「うぬぼれ」の根拠は、他人との比較でした。普通の人よりも自分はちゃんとやっている、ましてこの徴税人なんかとは比べ物にならないほど正しい人間だ、ということです。

 しかし、人と比較して神の前に自分を誇っても何の意味もありません。むしろそのような姿勢は神との関わりを妨げてしまうだけです。「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下して」いるとき、人との関係も絶たれてしまいます。人間は互いに助け合い、支えあって生きる者であるはずなのに、周りの人は競争相手になってしまいます。もっと大切なことは弱い人への共感を見失うからです。

 神殿に上ったもう一人は徴税人でした。彼は、本殿から離れて「遠くに立って」います。

 彼は神殿の「ユダヤ人の庭」と「異邦人の庭」の境界あたりにたたずんだままそこから先に進もうとせずに自分の犯した悪を恥じて、目を天に上げることもできませんでした。彼は胸を打って自分の弱さを悲しみました。

 聖餐式の懺悔の時に三度胸を叩く習慣はここからきているようです。かれは「神よ、わたしを憐れんでください、慈しみをもって,深い憐れみをもって、背きの罪を拭ってください」という詩編51編の言葉を用いています。単なる「わたし」ではなく、「罪人のわたしを」と述べています。

 「罪人であるわたし」という言葉にどんな現実感があるでしょうか。もちろん、自分に特別大きな罪があると思っているならば、自然にそう感じられるかもしれません。

 この徴税人にはそういう罪意識がありましたが、わたしたちは自分がそれほど悪いことをしているという意識がありません。「罪」とは、神から離れることです。徴税人のように「自分の小ささを認めて神の前にへりくだるとき、神は本当に自分を受け入れ、愛してくださいます」。「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」の「へりくだる」は、直訳では「自分を低くする」です。

 しかし、極度に低い自己評価を持っている人もいます。それも間違いです。自分自身のありのままを認めることは、わたしたちが、神の前に自分をさらけ出してみるときに初めて可能になるのではないでしょうか。

 ファリサイ派の人には神に「感謝」しましたが、それは自分がいかに正しく生活しているかということに片寄っていました。彼が表明したのは、自分自身に対する信頼であり、「自分自信を高くする」生き方であります。

 そのような生き方は神の目には義とされません。人間は弱い存在ですが、ファリサイ派の人は努力によってそれを克服しようとしました。

 しかし、徴税人は弱さを神の憐れみに出会うための入り口です。義人ではなく、罪人を招くために来れられた方は、徴税人こそ神のみ前に正しい人であると教えています。わたしたちの祈りも自分をさらけ出して自分の弱さのすべてを神様のもとに持っていき、神の祝福と恵みを頂いて聖堂を出ていきたいと思います。



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