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説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2022年10月16日(聖霊降臨後第19主日) 

望みを抱いて祈り続ける

ルカによる福音書18章1-8
 

 

 ルカ福音書の中の、951節〜1944節のエルサレムへの旅は終わりに近づいてきました。きょうの福音の18章の直前の、1720節で「神の国はいつ来るのか」という問いかけがあり、イエスは「神の国は、見える形では来ない」「神の国はあなたがたの間にあるのだ」(20,21)とお答えになりました。と同時に「稲妻がひらめいて、大空の端(から端へと輝くように、人の子もその日に現れる」(24)とも言っておられます。その日その時は神の裁きが下される時です(22-37)。この文脈から 今日の福音は、目的を明確に表しています。その手段とは、「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」ということです。

 では、何のために祈るのでしょうか。

 ひとつは、先週のサマリヤ人のように清くされ、癒された背後に神様が働いてくださった、という信仰があるので「神に感謝・賛美」をすることができた。という前提がありました。きょうの箇所は、「気を落とさずに」と言いますが、その決定的な裁きの時に向かう心構えについての教えとして受け取ることもできるでしょう。そこにはどんな状況が考えられるでしょうか。

 個人の苦しい、耐えがたいような状況の中に身を置く時、人は「もうダメだ」と気を落としてしまいます。しかし、それはある将来のことで人によって受け止める時間の長さがそれぞれによって異なります。実感できるものとして、わたしたちが直面している今の現実のことでもあるかも知れません。ご本人にとっては悲惨な状態です。困難なときにも、イエスはそのような状況のなかでも絶えず祈ることを教えています。きょうの聖書日課を読む上でも、弱い立場にある人の苦難にある状況は無視できないでしょう。

 もう一つの面は、人がなまぬるい、自分勝手な生き方をしているときの警告のメッセージです。神の判断(裁き)の視点から見たときに、何が本当に大切なのかを鋭く問いかけてくるのです。本来、終末についてのメッセージは、迫害や苦難の中にいる信仰者を励ますために、悪の支配する今の時代は必ず過ぎ去るという希望を語る福音でした。

 やもめと裁判官 の話がでてきます。この譬えに登場する裁判官は、必要に応じて任務につく、非常勤でその役割を担う町の有力者のようです。正規の裁判官ではないかも知れません。旧約聖書のイザヤ書10:1-2に、「偽りの判決を下す者について、彼らは弱い者の訴えを退け、貧しい者から権利を奪い、やもめを餌食とし、みなし児を略奪する」と述べています。

 一方で、やもめはみなし児や他国人たちと並んで、旧約聖書の律法、特に申命記では、保護が必要な者と見なされています。また、やもめに対する配慮は宗教的な義務となって出てきます。(出22:21-22、)

 やもめが煩わしさをもたらすので、 このたとえでは、やもめは自分に不正を働く者からの保護を求めて訴えています。裁判官は放置していたので、その訴えは、しつっこく「ひっきりなしに」行われた。この表現は7-8節の終末の裁きを意識させています。旧約聖書では、弱い立場にあるやもめの立場を保護することと、家名の存続のためにレビラト婚がありました。先週のルツ記39節以下もそうです。家を存続させることとやもめを保護する規定でもありました。男性中心の社会でのやもめは、自分を保護してくれる人がいませんので、きわめて弱い立場に置かれています。「しつこさ」だけが彼女の強みになります。従って、このたとえでも、彼女のしつっこさを強調しています。

 そもそもこのたとえ話が語られたのは、「神に祈っても結局は無駄ではないか」という考えを持っていた人々、主要には弟子たちに対してのものだったのでしょう。しつっこさは、神が誠実で慈しみ深い方であるから必ず祈りを聞いてくださるのだ、というこのことが信仰の現れなのです。

 「人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」(8)の「人の子」は本来「人間」を指す言葉でしたが、ダニエル書713-14節などから、神が決定的に天から遣わす審判者・統治者を指すようになりました。ここの文脈の中では審判者として再び世に来られるキリストのことが考えられています。

 「人の子」イエスは、十字架にかかり、死んで葬られ、黄泉に下り、裁きのために再び来られます。きょうの福音全体から考えれば、

 ここでいう「信仰」とは「苦難の中にあって絶えず祈り続ける姿勢」のことだと言ったらよいでしょう。このやもめのように、苦しみの中にあって、神以外に頼るものがない人が、必死の思いで神にすがる姿勢そのものを「信仰」と言っても良いのかも知れません。
 きょうの箇所から希望と励ましのメッセージを受け取ることができますが、最後の「人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」(8)という言葉には、警告の響きも感じ取ることができます。
 わたしたちはどうでしょうか? わたしたちの祈りや願いが、どこまで切実なものかということではないでしょうか。

 「いつも祈る」ことと「気を落とさない」ことが組み合わされているように、神の国の到来を待つ者に必要な祈りは、「ただ祈り続ける」ことだけではではありません。それは、やもめが諦めることなく願い続けたように、必ず神からの応えが与えられるということに望みを持ち続ける信仰に支えられた祈りであります。神の助けを求めて、神からの助けが必ずある、ということを信じる叫びのような祈りであるように、キリスト者の祈りは神の力を信じて求め続ける祈りであります。明日を信じて神に祈り、今を生きるのが祈りによる信仰です。


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