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説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2022年10月9日(聖霊降臨後第18主日) 

感謝・賛美するサマリア人

ルカによる福音書17章11-19
 

 

 紀元前10世紀、ソロモン王の死後、イスラエルは政治的に分裂しました。北のイスラエル王国は、エルサレムの神殿とは別の聖所をサマリアのゲリジム山に作り、宗教的にも南のユダ王国から分離しました。

 紀元前8世紀前半に、アッシリアは北王国のサマリアを征服し、諸国の民によって入植されました。イエスの時代、人種的にも文化的にも混血が進んでいましたサマリアは、純血を重んずる南のユダヤ人から見れば、民族的にも異なったものになり、分かれてしまいました。このような経緯で、ユダヤ人とサマリア人は反目し合うようになっていたのです。
 きょうの福音は「サマリアとガリラヤの間」とありますが、正確な場所はよく分かりません。話の中にサマリア人とユダヤ人が一緒に出てくるので、それに合わせた場面設定だとも言えそうです。なお、イエスが育ったガリラヤ地方は、ユダヤから見てサマリアよりもさらに北にありましたが、ある時代に、南のユダヤ人が入植して町や村を作ったので、人種的にも宗教的にもユダヤ人との同一性を保っていました。つまり、ガリラヤの人々はユダヤ人なのです。
 ユダヤ人とサマリア人は、共にモーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)を正典としていました。その中には次のような規定がありました。レビ記13章の規定によると、重い皮膚病にかかった人は、宗教的に汚れた者と見なされました。祭司から「あなたは汚れている」と言い渡された患者は、ユダヤ人の共同体から隔離され、町や村の外に一人で住まねばならず、歩くときも「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と叫ぶ必要があったと、レビ1345-46に記されています。 

 イエスの時代に反目し合っていたユダヤ人とサマリア人が一緒に行動していることは普通ならば考えにくいことです。しかし、重い皮膚病の人々は、それぞれが本来属していた社会から追放されてしまっていて、その中で苦しむ者同士が、お互いの境遇をいたわりあい、助け合いながら生活していたものと考えられます。

 イエスが村に入ろうとしたとき、十人が「離れて立っていた」のは、彼らが村の外に隔離されていました。わたしたちが使っている新共同訳聖書の1712節では、「ある村に入ると」と訳していますが、先のレビ記の規定からいいますと訳がおかしいのでは、と思ってしまいます。他の翻訳をみて「村に入ると」と訳しています。厳密には、ここで使われている単語は現在形ですから「イエスが村に入ると」でいいのです。少し、疑問がのこるところです。村はずれの境界線上に住んでいたというイメージでしょうか。思い皮膚病の人たちは、自分の力ではどうにもならないこととして、受け入れていたのでしょう。そんな時、イエスを出迎え、偉い先生、わたしたちを憐れんでください、とすがってきました。

 彼らを見て、なぜイエスは「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」(14)と言われたのでしょうか。当時の社会では、宗教的に汚れているとされていますから症状がおさまって、祭司に体を見せて「あなたは清い」と言い渡されるまで、患者は社会に復帰することができないのです。そこで、十人の患者をいやそうとするイエスは、「行って、祭司たちに自分自身を見せなさい」と指示しました。すると道の途中で清くされました。

 なお、ユダヤ人とサマリア人は別々の祭司を持っていたので、彼らは、別の場所へ出かけていったはずです。
 病気が治った人々は皆、喜んでいました。この10人は皆「清くされた」(14)のですが、「自分がいやされたのを知って」「感謝し」(16)「賛美するために戻ってきた」(18)のはサマリア人一人だけでした。この人がはっきりと気づいたことは、「自分がいやされた」ことでした。神がこのような自分をいやしてくださった」という感謝だったのではないでしょうか。

 他の9人も、清められて、治してもらいました。サマリヤ人は彼らと違って、神が癒して下さったことを知ったので、彼は、跪いて、神を賛美し感謝することができたのです。どちらも、わたしたちにも似た経験があるかもしれません。わたしたちが、本当に神の憐れみに出会っているでしょうか

 19節で「あなたの信仰があなたを救った」という言葉は、どういうことでしょうか。「あなたの信仰によって神があなたを救ってくださった」というほうが分かりのではないでしょうか。しかしイエスは「信仰」の力を強調しています。
 重い皮膚病だったこのサマリア人の「信仰」とは何でしょうか? それは、この人が自分の病気が治ったことを「神がいやしてくださったこと」として受け取ったということではないでしょうか。自分の身に起こった出来事の中に神とのつながりを発見したのが、この外国人であるサマリヤ人でした。

 自分の現実の生活の中に神の働きを見つけていくこと、きょうの福音が伝える信仰だと言えるでしょう。また、信仰があなたを救った」というときの「救い」は、このサマリア人が神の差し伸べる救いの手に気づく時、心から感謝と賛美を生きる者に変えられたことだと言えるのです。
 イエスは、きょうの福音の出来事のように、民族の違いを超えて、また、個人の個性や努力に関係がないのです。神の御業に気づくことです。そうすれば、やがて神の救いの喜びが異邦人、外国人に広がっていくのを目の当たりにしました。ここに、神の国の実現を見ていたのでしょう。今のわたしたちは、わたしたちに働きかけてくださる神の御手に触れ、信仰と言う恵みに与り、どのように賛美と感謝、神の国、神の支配の現実を歩んで行きたいと思います。


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