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説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2022年10月2日(聖霊降臨後第17主日) 

赦し 信仰 奉仕

ルカによる福音書17章5-10
 

 

 新共同訳聖書がルカ17章の1-10節に「赦し、信仰、奉仕」という小見出しを付けていますように、ここにはいくつかの主題が並んでいますが、本来、1-2節、3-4節、5-6節、7-10節は別々の伝承だったと考えられています。イエスの弟子としてふさわしい生き方はどういうものかを教える言葉として、さまざまな場面で語られたQ資料と言われるイエスの語録集から言葉が集められたもののようです。きょうの福音の5節の前の1-4節を読んでみますと、「イエスは弟子たちに言われた。「躓きは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首に碾き臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。あなたが他も気を付けなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば赦してやりなさい。一日に7回あなたがたに対して罪を犯しても,7回、「悔い改めます。」と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい」というみ言葉が語られます。この信仰共同体内の「罪の赦し、悔い改め、赦す」という関係は、人と神との関係を前提にしています。この間の関係が前提になるのは信仰です。

 その一つとして、 きょうの福音は、3-4節の「ゆるし」の主題とつなげて考えることが大切でしょう。「もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい」。こう言われても、実際には非常にむずかしいと感じることがあるでしょう。そして、この「ゆるせない」ことを「信仰が足りない」ことだと感じることもあるのではないでしょうか。だとすると、イエスの答えは、大きな信仰があれば赦せるはずだ、ということになるでしょう。それよりも、赦しの力は神から来る、その神の力を信頼すると、いう心をもって受け取ることが大切なのだ、という意味になるでしょう。

 きょうの福音で、1節では、弟子たちに言われましたが、5節では、使徒たちは「わたしどもの信仰を増してください」と信仰の「量」を問題にしました。この使徒たちに対して、イエスは「からし種」の話をしています。からし種は12ミリの小さな種で、とても小さなものの譬えです。原文では、もし信仰があれば、桑の木が言うことを聞くであろう」ということですが、桑の木に抜け出して、海に生えるというのは、大きなことの譬えです。なぜ、そんな小さな信仰で大きなことが可能になるのでしょうか。ただ頭で考えるよりも、みことばを自分の体験と照らし合わせてみることが大切でしょう。「信仰があれば不可能なことは何もない」と感じたことがありますか。むしろ「信じてもうまくいかなかった」という体験も多分あるでしょう。長い時間軸でみれば、そうだったのか、という神のご計画を知ることも多々あるでしょう。それは「信仰とは量や大きさの問題ではないのだ」と言うことでしょうか。信仰の力とは「信じるとその人に不思議な力が備わる」というようなものではないようです。「信じて神にゆだねたときに、神が働いてくださる」ということだと言えるでしょう。だからこそすべてが可能になるのです。旧約聖書のハバクク書24節では、「見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。しかし、神に従う人は信仰によって生きる。」「正しい者は信仰によって生きる」と聖パウロがロマ書117節に引用しているところです。福音書の中で「神を信じる」というのは「神は存在すると思っている」ということではありません。世の人々の中で教会外では、神が存在するとか、しないの議論がありますが、イエスの出会った人、イエスの周りにいた人は、だれも神の存在を疑っていませんでした。当時の人たちは、神を信じるとは「神の存在についての考え方」の問題ではなく、「神に信頼を置いて生きるかどうかという生き方」の問題だったのです。信仰をもって生きていくことだったのです。

 からしだねと信仰について考えていきますと、自分が自分の力でこれだけのことを成し遂げた、という自分の行いを自分で評価するものではありません。神が働いていてくださる。そこに自分をゆだねていく、ということです。だから自分は何もしなくていい、というのではなく、ゆだねて自分にできる精一杯のことをしていこう、ということになるのです。本気でそう思えば、「わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです」(10)と言えるのでしょう。わたしたちは「自分の力でなんとかしなければならない」という世界に生きています。「能力と努力がすべてを可能にするはずで、うまくいかないのは能力や努力が足りないからだ」と考えるような社会です。しかし、そういう考えはどれほど多くの人を行き詰らせてしまっているでしょうか。人間は、自分の能力と努力で生まれてきたのではありません。生まれた子どもは自分の能力と努力で育っていくのではありません。むしろ、周囲の人々の愛の中で、そしていのちの与え主である神の愛の中で生き、成長していくのです。
 さらに「わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです」という言葉も、人が人をゆるす、ということと関連づけて受け取ることができるかもしれません。

 「しなければならないこと」ことは、直訳しますと「為すべき負債を負っていること」になります。だから兄弟の罪を赦すことは、自分の神に対する負債を果たすこと」になるのです。わたしたちは神に赦されている。だからこそ許し合うことができるのだとすれば、人が人をゆるすということは、まさに「しなければならないことをしただけ」ということになります。威張ることでもなく、喜ばれることでもなく、十字架の愛を信じる者にとって、当たり前のことです。イエスの十字架によって買い取られた命なのです。


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