header
説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2022年9月25日(聖霊降臨後第16主日) 

金持ちとラザロ

ルカによる福音書16章19-31
 

 

 金持ちの譬えでは、イエスの遺体を引き取ったアリマタヤのヨセフや神の救いに与った徴税人の頭であるザアカイのような「金持ち」もいますが「金持ち」が神の国にはいるよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しいとイエスが説くように、富を持つことは神との関わりを遠のかせ、隣人との関係を破壊させる原因になりかねないということです。そこで、永遠の命への道をイエスに尋ね求めた「金持ち」が、財産を売り払って貧しい人に施せ、と聞くと悲しみながら去っていきました。

 の貧しい人が横たわっています。金持ちは毎日贅沢を楽しんでいましたが、空腹に苦しんでいた孤独なラザロに近寄って来るのは不浄な動物とされている犬だけでした。犬は複数形で描かれています。金持ちの食卓からは、毎日多くの残飯や、手を拭うために使ったパンくずが落ちてきます。それで空腹を満たしたいと思っていたラザロですが、それさえも与えられることがなかったと思われます。そのラザロが横たわっていたのは、金持ちの家の門の前です。門は家の中と外とをつなぐ入り口ですが、金持ちはその門前にいるラザロに目を向けることが一切ありませんでした。ラザロにとって門は閉ざされた「裂け目」、深い淵にすぎません。22節以降には、死後の世界についての描写があります。二人の死後、その境遇は逆転します。金持ちは死んで「葬られた」とありますから、盛大な葬式で葬られたと思います。一方ラザロの方は、墓に葬られもしないで「天使たちによって連れて行かれ」たのです。人間の目には隠されていますが、この二人の逆転が始まっていました。ラザロの運ばれたところは、原文では、「アブラハムの胸」です。それは丁度胸に抱かれる子どもの平安を現わすのと同じように、天の祝宴での最高の席を現わしています。

一方で生前に贅沢の限りを尽くした金持ちは、黄泉の炎の中で苦しんでいます。散々飲み食いを楽しんだ「舌」は、極限の熱と渇きのために、たった一滴の水を求めています。生きているときに悪いものを受けたラザロは今「慰められています。ラザロという名前には「神が助ける」という意味があるそうです。

しかし、神はラザロを助けたのは、彼が立派だったわけでもありません。善行をしたわけでもありません。イエスが、山上の教えで語った「貧しい人々は、幸いである」という神の国の秩序が実現しているのです。

黄泉の炎に苦しむ金持ちは、ラザロに水を運ばせるように頼みますが、金持ちとラザロの間には大きな淵という裂け目があって、そこを超えることができないので、それは不可能なことです。生前には、門によって「淵」のような役割のものを自ら築いていた金持ちは、今は予期しなかった「淵」という裂け目に苦しんでいます。金持ちは生きている間に自分の富を貧しい人に分かち合っておくべきでした。死後二人の境遇は、逆転してしまいました。

ここにある死後の世界の具体的な描写は当時の人々の考えに基づいたものであります。この逆転には、「神は真実な方で、貧しい人の苦しみを決して見過ごされることはない」ということが根底にあります。
 金持ちだった人はラザロを遣わして、兄弟に警告して欲しいと願いますが、アブラハムはそれを断ります。

「お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる」(29)、「モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう」(31)と言われますが、それは、貧しい人を助けなければならない、ということについては、旧約聖書をとおしてすでにはっきりと聞いているはずだ、ということです。しかし、金もちは、聖書の言葉より奇跡にすがろうとします。それには理由があります。なぜならば、かつて自分がそうであったように、兄弟たちも聖書に耳を傾けていないことを知っているからです。しかし、それでもアブラハムは、聖書の言葉に耳を傾けないなら、たとえ奇跡をみても金持ちの兄弟が変わらないと言って、彼の願いを退けます。金持ちは「奇跡」が悔い改めへの入り口になると考えていますが、アブラハムは「聞く」ことこそ入り口だと説きます。聞くことがなければ、奇跡をみてもその意味を悟ることができません。聖パウロは「信仰は聞くことにより、しかもキリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(ロマ10:17)と述べていますようにイエスに聞くことが永遠の命に至る道です。

 この世に生きる人には、天の国を垣間見ることが許されていません。しかし、自分の家の目の前に、貧しい人が横たわって苦しんでいる、そのような現実はわたしたちに何かを呼びかけているはずです。そして、聖書をとおしての神の呼びかけと、目の前の人間の現実の必要が結びついたときに、わたしたちの具体的な行動への呼びかけになります。
 わたしたちはそういう呼びかけを聞いているでしょうか。イエスは単に言葉による教えを述べたのではなく、さらにマタイ2531-46節で、イエスが、飢え、のどが渇き、旅をしていて、裸であったり、病気であったり、貧しく小さくされている人にしたことは「わたしにしてくれたことだ」と言った言葉も思い出すならば、「イエスは死者の中から復活して、貧しい人、もっとも小さくされている兄弟の中にいる」と言えるかもしれません。わたしたちは、そのイエスの姿に気づくことができるでしょうか。テモテ16:17の「この世で富んでいる人々に命じなさい。高慢にならず,不確かな富に望みを置くのではなく、わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。と記されています。


このページトップ」へ戻る