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説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2022年9月11日(聖霊降臨後第14主日) 

立ち帰ることを待つ神

ルカによる福音書15章1-10
 

 

 1435節で「イエスは聞く耳のあるものは聞きなさい」と呼びかけられました。きょうの福音は1-3節が導入の部分になります。それに応えるようにして、徴税人や罪人がイエスの話を聞くために続々とやってきます。

 ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだしました。この「不平を言う」というとは、どういうことでしょうか。自分たちの思惑とは、かけ離れた、異なった神の救いのみ業に対して「不平を言う」姿は、旧約聖書にも見られます。(出16:2以下、民14:2、ヨシュ9:18など)。

 4節で、イエスは二つの譬えについて語り始めました。

 「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。

 もう一つは、8「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。

 イエスの答えが、「神とは、この羊飼いのような方であり、一枚の銀貨を探す女性のような方であり、だから、自分も罪びとを招き、食事を一緒にしているのだ」とおっしゃっているのです。

 ここで登場する徴税人とはどういう人でしょうか「徴税人」は、新約時代のパレスチナでは、税金の徴収はローマ人の徴税を請負う人がいて、直接彼らに雇われた地元民によって税を集められていました。したがって、新約聖書の「徴税人」は、ローマ人の手先になって同胞から税を徴収するユダヤ人のことを指しています。徴税人は異邦人であるローマの支配者のために働き、また割り当てられた税額以上の金を集金し、それを自分の収入としていました。だから同胞のユダヤ人から憎まれ、盗人や強盗と同類の輩として、「罪人」と同様に見なされていました。さらに、異邦人と絶えず交流する徴税人たちは、祭儀的に汚れていると見なされていました。徴税人は「罪人」と一緒に描かれていることが多く、罪人の代表者として扱われています。

 また、ファリサイという名前は「分離された」を意味するヘブライ語からきている、と言われています。彼らは自分たちを汚れから「分離された者」として他者を見下していたのでしょうか、違いを強調していました。

 一方、イエスは自分を罪人の枠から切り離さないで、彼らを「受け入れた」のです。イエスは罪人が自分のもとにやって来るのを待ち望み、罪人を受け入れ、食事を共にすることによって、彼らとの親密な交わりを態度で表していきました。このようなイエスの態度はファリサイ派や律法学者には理解できないで、不平をいう結果になってしまったのです。

 「罪人」とは、律法を守って生きる敬虔な「正しい人」の正反対の歩みをする人たちです。マコ2:17、マタ9:32では、イエスは正しい人ではなく、「罪人」を招くために来ました、と記されています。ただし、ルカ532節には「正しい人ではなく、罪人を招いて悔改めさせるためにわたしは来た」とあります。そうであるならば、ルカでの「罪人」は悔い改めを必要とする人を表わしています。(ルカ15:710)。だから、一匹の見失った羊が見つかったとき、見つけるまで探し求めてくださり、総がかりで見つけたのでみんなで喜ぶのです。ここに神のみこころがあります。

 もう一つの譬えからも、ルカによる福音書の焦点は、離れていた罪人を見いだしたときの神の喜びにあるのは明かです。しかも、「失われた銀貨」の譬えはマタイにはありません。ルカだけが伝えている譬えです。このルカの二つの譬えは一対になっています。失ったものを見つけるのに要する労苦を述べて、そして見つけたときの喜びに共にあずかるようにと、という共通の喜びを述べています。同じ主張のたとえを加えることによって、ルカはその主張を強調しています。

 また、イエスは徴税人ザアカイの物語(19:1-10)の結びで、「人の子は失われたものを捜して救うために来た」と述べています。この「失われたもの」は二つの譬えによって、罪人が神を捜すよりも前に、神が捜しておられるということに気づかされます。二つのたとえで聖書が述べる「悔い改める」とは、善行を行って神に赦しを願うことではなく、神が捜し出してくれたことに気づくことであります。きょうのたとえ話は、神が罪人の滅びではなく、罪人が人々の中で生きることを望んでおられることをはっきりと示しています。神は、罪によってご神ご自身から離れ、ボロボロになり、滅びかけようとしている人を、探し、待ち続け、見つけて連れ戻すことを喜びとする方なのです。福音書の中での「罪人」の問題はほとんど、自分の意志で悪を行ったというよりも、病気や職業によって社会関係のなかで罪人とされ、そう思わされて、神からも人からも断絶されていた人々の問題でした。今の社会の中ではどういう人々のことを思い浮かべることができるでしょうか。きょう、わたしたちはこの福音をどう受け止め、どのように分かち合うことができるでしょうか。小さくされた人々に出会い、共に歩むこと、それは失われたものを捜し、立ち帰ることを待っておられます。わたしたちの傲慢な心に悔い改めの思いが芽生え、私たちに宿る罪に光を送ってくださいます。この光の中を生きるとき、天には大きな喜びがあるのです。


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