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説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2022年9月4日(聖霊降臨後第13主日) 

イエスに従う

ルカによる福音書14章25-33
 

 

 イエスはエルサレムに向かう旅を続けています。きょうは、先週のルカ1415-24節の福音の続きです。この旅は十字架に向かう旅であり、十字架を経て天に向かう旅でもありました。きょうの福音は、「イエスに従うこと」がテーマになっています。いきなり弟子の条件が書かれています。「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら」(1426)というのはそのまま読めば、かなり厳しい言葉です。この背景には、イエスは十字架に向かって進む旅ですからイエスのみが知りうる緊迫した特別な状況の中での言葉だから厳しくなるのでしょうか。実際問題として、そのような状況にあるイエスに従って歩んでいくことは、それくらい大きな覚悟を必要としたはずです。また、「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ」(ルカ1427)という言葉も、そのような特別な状況の中でこそ切実な意味を持つ言葉かもしれません。家族や自分の魂をも「憎まず」、自分の十字架を「背負わない」なら、弟子ではない。イエスに従う群衆は「憎んで、背負う」ことをまだ知らずに、ぼんやり後をついて来ただけなのかも知れません。そんな彼らにイエスは「振り向いて」、「憎んで、背負う」ことの重要性を彼らに教えています。

 「憎む」と訳された動詞は、「少なく愛する」の意味でも使われます。ここでの「憎む」は、マタイ1037- 39節「わたしよりも父や母を愛する者は」と言う比較に照らして理解するのがよいかも知れません。その場合、「家族や自分の魂よりもイエスを愛する」の意味になります。この「憎む」をどのように解釈するにしても、弟子に求められているのはイエスと同じように「十字架を背負う」ことであります。

 ここでの「十字架」は、殉教の覚悟そのものというより、「自分を捨て」と「日々、自分の十字架を背負って」が並行して語られています。923節でイエスは弟子だけでなく、「皆に」向けて、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と命じています。その十字架は「日々」負い続ける十字架であります。従って、これは一回きりの殉教を指すのではなく、イエスに従うことによって生じるさまざまな困難を意味しています。

 1427節でもイエスが振り向いて語りかけているのは「多くの群衆」であります。また、「憎んで、十字架を背負う」という流れの中で捉えるなら、27節の十字架は、家族や自分の魂よりもイエスを愛するという態度と深く関わるものです。十字架刑はローマ帝国の処刑方法の1つで、死刑囚は、自分の十字架を処刑場まで担いで行き、そこで木の上にさらし者にされるのです。そこから考えると、「十字架を背負う」というのは、「苦しみと死」というだけでなく、「自分の利益、名誉を手放し、人からの侮辱さえも受け入れて生きること」を意味していると言えるのかもしれません。これは「日々」の生き方の問題なのです。
28節から32節の二つのたとえは対になったたとえであり、大切なことは「本当にイエスに従う覚悟があるかどうか、そのために一切を捨てる覚悟があるかどうか、前もってじっくり考える」ということになるでしょう。

 「まず腰を据えて」が、たとえの要になります。塔を、櫓を建てたり、戦争に訴えようというのですから、しなければならない準備は山ほどあります。しかし、それを「すべて捨てておいて、まず腰を据えて」と説くのがこのたとえの目的でもあります。続く33節は「だから同じように」と始めて、自分の持ち物を一切捨てることが弟子に必要な態度だと述べています。「自分に属するすべてのもの」とは「自分の家族と自分の魂」であり、自分の思いのままにできると思い込んでいるそれらすべてと「決別する」ことが求められているのでしょう。わたしたちは、福音書を読んでいて、きょうのような特別に厳しいイエスの言葉に出会ったとき、それをどのように受け取ったらよいでしょうか。信じると苦しいことが多いと思うような経験をなさったことがないでしょうか。このような時、何よりも大切なことは、福音の言葉を祈りの心で受け取ることです。それは、自分の考えや自分の都合で福音の言葉をゆがめたり、薄めてしまったりしないために大切なことです。そのために、厳しい言葉をあまり割り引かずに、厳しさを厳しさのまま受け取るという姿勢が必要なのです。
 しかしそれと同時に、イエスのすべての言葉は、素晴らしい、本当の喜びへの招きである、というふうに受け取ることも大切です。「神が、イエスが命じているから仕方ない」というような受け取り方では、心から応えることはできません。「神は必ずわたしにとって一番良いことをしてくださる」という信頼をもって聖書の言葉を受け取るのです。イエスの招きは、先週のルカ1415-24節のテーマでした。ルカ福音書の文脈で言えば、神の国の宴会への招きでした。神のみ国で楽しい宴をする人々が招かれているのでした。わたしたちは、その天の御国の宴に招かれている「幸い」を感じたときにこそ、わたしたちはイエスに従うことを自分の生き方として選ぶことができます。もちろん、厳しさも苦しみもあります。人から誤解されたり、変な宗教に入ってしまったと、拒絶されたりすることもあるでしょう。きょうの福音で本当に問われていることは、わたしたちがイエスに従うことを本気で自分自身の生き方として選んでいるかどうか、なのではないでしょうか。現状のすべてから決別する」という覚悟が、イエスの弟子であろうとする「すべての人」に求められています。自分の欲求や感情を捨て去るとき、人はありのままの自分を受け入れ、他者に仕えることができるようになるでしょう。すべての人を生かすために十字架を担ったイエスに従う者は、そのイエスを愛することによって、自らも仕える者として生きることができるようになるのです。


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