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説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2022年8月28日(聖霊降臨後第12主日) 

へりくだる

ルカによる福音書14章1,7-14
 

 

 ルカ福音書の中の、エルサレムへの旅の段落(951節〜1944)が続いています。

 今日の福音の、1節では、安息日の食事について語られています。安息日は何よりも礼拝の日であります。神殿では生け贄が捧げられ、会堂では祈り・聖書の朗読・説教が行われていました。(ルカ416、使13:2715:21)。

 人々はイエスの立ち振る舞いに悪意をもって観察していますが、7節以下では、逆にイエスが彼らの振る舞いにひそむ自己中心的な行動をあばき出すことになります。今日の日課で省略された2-6節には、水腫の人のいやしの話があります。ルカ福音書では、安息日にイエスが病人をいやしたことが66-11節、1310-17節とこの箇所の3回伝えられています。いずれも苦しむ人々へのイエスの深い共感と愛を表している話です。イエスは、「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか」(145)と問いかけます。イエスは「安息日の律法が何を禁じているか」ということに関心があるのではなく、目の前の苦しんでいる人に目を向けます。

 そのイエスの姿勢は、きょうの福音の教えにもつながっています。福音書を読むとき、言葉の背後にあるイエスの生き方・イエスの思いを受け取ることが大切です。

 7節で、イエスは招かれた人々が上座を好む様子を見て「たとえ」を語り出します。宴会でどの席に座るかはその人の名誉に関わることであるのです。従って、「上座ではなく末席に」と教える生活の知恵を通して、神から「栄光」を受けるための知恵をイエスは語っているのです。高ぶる者は低くされ、自分を低くする者は高められるのが、神の国の秩序なのです(22:26-27)。

 また、「へりくだること」を勧めています。フィリピの信徒への手紙2章の有名なキリスト賛歌では、イエスご自身が「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(8)と記されています。

 この「へりくだる」という言葉を一般的・抽象的に考えるよりも、「イエスはどのような意味でへりくだる者であり、身分の低い者であったか」を振り返ってみるとよいでしょう。それは神に対する従順とすべての人に対する連帯を貫く生き方だと言えるかもしれません。イエスの死によって低くされ、復活によって高められるイメージと重なってみえます。

「神からの栄光」を受けるために必要な態度をのべていることになります。イエスが問いかけているのは、単なる人間的な評判の問題ではないはずだからです。

 イエスは13節で、貧しい人や体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を食事に招きなさい、と言います。障がいを抱えている人に対する古代イスラエル社会の見方は非常に差別的なものでした。

 旧約聖書の中に、障がいのある者は祭司の務めを果たすことが許されない(レビ記2117-23)とか、「目や足の不自由な者は神殿に入ってはならない」(サムエル記下58節)というような箇所があります。そこから考えればイエスの語る「神の国」は、そのように差別され、排除された人々が奪われた人間性を取り戻し、すべての人が神の子どもとして等しく尊重される場だと言うことができるのです。

 この段落では、客を招く者に忠告されています。「あなたの友だち」「あなたの兄弟」「あなたの親戚」とは、自分を中心にした血縁、地縁によって結ばれた人々のことです。また「豊かな隣人」というのは、親しくつき合っている人ではないと思われます。親交がないのに、社会的地位のある金持ちを呼ぶのは、自分の名誉のため自分の自慢のためです。

  親しい人や豊かな人を招けば、お返しがあるでしょうから、その宴会は自分の利益のためだけの閉ざされた交わりになってしまいます。イエスはむしろ、報いを期待できない人々を招くべきだと教えています。「だから宴会に招いた人からお返えしを受けなくても幸いなのは、将来、神がお返えしてくださるからです。

 「その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる」というのは、もちろん、ありがたいことに神からの報いがあるということです。

 ここには、人からの報いを期待しないという面があります。わたしたちは普段の生活の中で、プレゼントやそのお返しに、ずいぶん気を使いながら生きているのではないでしょうか。人からの報いや人へのお返しが当たり前の社会に生きているわたしたちにとって、イエスの言葉は非常に強烈な問いかけです。「これだけのことをしてあげたら、これだけのことはしてもらえるだろう」「これだけのことをしてもらったから、これくらいはしてあげなければならない」というだけの世界では、自分の本当の生き方を見いだすことはできないのです。自分の生き方を人からの報いではなく、神との関わりの中で選び取るということは大切なことです。

 今日のイエスの言葉につながる何かを見つけることができるならば、わたしたちの中にも、ある意味で、もう神の国は、神の愛がすべての人の愛によって結ばれます。そして、そのことがすでに始まっているのです


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