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説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2022年8月21日(聖霊降臨後第11主日) 

今、為すべきこと

ルカによる福音書13章22-30
 

 

 ルカ福音書ルカ951節〜1944節はガリラヤからエルサレムに上るイエスの旅の途中におこるさまざまな出来事を伝えています。この旅は、神の国を告げ知らせる旅であり、十字架を経て神のもとに向かう旅でした。きょうの福音もその旅の一コマですが、ここから豊富な、異なった視点から神の国のメッセージを受け取ることができるでしょう。

 23節で、すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」。と、問いかけました。この人は、なぜこんなことを聞いたのでしょうか。「救われるのが少数ならば、がんばって天国に入るようにしなければならない、逆に、ほとんどの人が救われるのなら、横並びで、隣の人をみて、平均的にまあまあ人並みにやっていればいいでしょう」とそのように思ったのか知れません。

 しかし、イエスは「狭い戸口から入るように努めなさい」この「努めなさい」という単語の意味は、スポーツ選手のように闘うという意味もあるようです。

 この闘うは、ガチで相手と取っ組み合うのではなく、日々鍛錬を積み重ねていきなさい。狭い戸口から入るために自分を鍛えて、鍛錬しなさいということです。「入ろうとしても入れない人が多い」というイエスの言葉は、「救われる人は少ない」と言っているようにも聞こえます。ここで問題になっているのは、最終的な神の国の完成にあずかることができるかどうか、ということです。もちろん、それにあずかることができるかどうかは、人が決めるのではなく、「神の判断」すなわち「神の裁き」にかかっています。救われること神の国に入ることがどういうことか、イエスの教えを聞いてみましょう。

 救いとは、28節では、「神の国に入っている」29節で「神の国で宴会の席に着く」ということを意味しています。「神の国」とは、「神の愛が完結すること」だとも言えますが、それには「すでに始まっている」面と「最終的にいつか完成する」という面があります。これは人知ではしえません。

 鍛錬を怠って入りそこね、戸口が閉じられたあと、「外に立って」あわてふためく人々の様子を描いています。将来を描くことによって、閉じられる前の努力の大事さが浮き彫りにされています。

 24節では救いに入るための警告として、戸口の狭さが述べられていましたが、25節で「家の主人が立ち上がり、戸口を閉めてしまった時からでは」。と時間的側面が指摘されます。戸口の鍵を握っている家の主人が立ち上がる最後の時に遅れないようにしなければならないのです。

 しかし、締め出された人は戸を叩いて、ご主人様、戸を開けて下さいとおねがいしますが、主人は「お前たちはどこの者か知らない」と言って拒絶します。

 それでもなお外に立つ人々は以前からよく知っていると訴えています。

 マタイの並行箇所7:22)では「主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか」とあり、明らかにクリスチャンが考えられています。

 このルカでは、この人たちは、優先的に救いにあずかれると安心していたユダヤ人のことを指していると思われます。必死になった彼らは、「あなたの前で」あなたとご一緒に食事をしたこと、また「私たちの広場」で教えてくれたことを持ち出して、主人と関係が深いことのある者であると主張します。

 しかし主人は、同じ答えを繰り返し、さらに「不義を行なう者」だと断定し、立ち去るようにと命じます。

 27節は詩編69節からの引用です。「不義を行なう者」という言葉が急に出てきます。義とは正しいという意味ですが。ここでの義とは相手との関わりを大事にし、それにふさわしい態度を取ることであります。しかし、「あなたの前で、一緒に」食事をしたと言い、「私たちの広場で」教えたと訴えても、「義」と呼べるような誠実な関わり方に欠けているのなら、場所を共有しただけのことにすぎないのです。外に立って願う者は主人との関係を強調しますが、教えも聞いていない、ただあなたはその場所にいただけで、私とは何のかかわりもないのです。主人は「あなたがたを知らない」と述べ、その関係性を否定します。 

 一方、戸口が閉じられた家の中では、宴が始まります。29節の「宴会の席に着きます」から、ここでは終末の宴を指しています。ルカ1237節では、神の国での食事について「主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる」と述べています。

 この神の国の宴の席には、アブラハム・イサク・ヤコブやすべての預言者の他に、「東と西から、そして北と南から」全世界から集まる異邦人が連なっています。しかし、「外に投げ出された者」は戸口の隙間から、それをのぞき込むことしか許されない。そこで泣きわめいて歯ぎしりするしかありません。

 「最初の者」はユダヤ人を指し、「最後の者」は異邦人を指します。ユダヤ人は自分たちこそ救いに近いと慢心していました。だから「今」をおろそかにし、救いから遠ざけられました。むしろ救いから遠いと思われていた異邦人の中に救いにあずかる者が現れます。

 しかし、異邦人だからということだけで救いにあずかれるのではないように、ユダヤ人だという理由だけで遠ざけられるのでもありません。大切なことは、「今」がどのような時かをわきまえ、それにふさわしく応答することである。終末の宴に連なるためには、この今、神に心を開き、イエスとの交わりに入れるようにと、自分自身と「戦う」必要があります。戸を狭くしているのは、自分は救いにあずかれるという慢心です。神は誰にも戸を開いています。それを生かすかどうかは、その人自身にかかっているのです。


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