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説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2022年8月14日(聖霊降臨後第10主日) 

分裂をもたらす

ルカによる福音書12章49-56
 

 

 イエスのエルサレムに向かう旅の途中で、ずっと語られているのは「神の国」についての教えです。この神の国には、「今すでに始まっている」という面と、「世の終わりに現れ、完成する」という面があります。終末における完成ということの中には、神に反するすべてのものが滅ぼされるという「裁き」の面があります。先週のルカ1232-48節もその裁きについての警告の言葉でしたが、きょうの箇所にも、非常に厳しい警告の内容を持つイエスの言葉が集められていると考えたらよいようです。

 49-53節では、イエスが地上に来た目的を述べています。「私が来たのは地上に火を投げるためである。」とあり、49節後半の「その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか」との結びつきは理解しにくくなります。

 また、51節では、「地に平和を与えるために私はやって来たと思っているのか」そうでないなら「むしろ、分裂だ」と述べており、イエスの普段の発言とは矛盾しているとも思えます。

 しかし、確かにイエスは、平和をもたらすために来ました。イエスはすでに「火」が燃えていたらよかったと語っています。そうであれば、この燃えるべき「火」は、まずは裁きの火ではなく、「信仰の火」であり、真の平和をもたらす火にほかなりません。しかし、その意図するところとは、まったく反対に、この火は「裂け目」、分裂を作り出してしまいます。それは、イエスを受け入れる側に問題があるからです。

 人々は神から遠く離れていますが、自分では神の側に立っている、と思い込んでいる。そのような人にとって  イエスの言葉は耳障りでしかないでしょう。聞くにあたいしない言葉と映るのです。

 こうして人々は自信たっぷりに、「聞かなくてもいい」と神の言葉を拒絶することになります。

 神から離れているのに、それに気づこうとせず、神の言葉を告げるイエスに聞き従わない人々は、拒絶するという態度を取ることによって、神と彼らとの間の裂け目を気づかないで、自らの不信仰を暴露していますが、この裂け目は人間同士の裂け目でもあります。なぜなら、神を媒介としない交わりは、偽りの平和にすぎないので、いずれ裂け目は明らかになるからです。裂け目を指摘するイエスは、人々の自信に満ちた傲慢な圧迫を受けることになります。

 この圧迫の極みが十字架という「洗礼」であります。この節の「洗礼される」と「完成される」は、どちらも神によってなされるという受動形で語られています。イエスの十字架を完成させるのは神であり、そこには、神の意思が働いているのです。

 また、この「火」とは何でしょうか、それは「聖霊」とも結びついています。使徒言行録2章にある「炎のような舌」は聖霊のシンボルとして扱われています。ここには「清め」られるというイメージもあります。「火」は、聖霊によって人に罪のゆるしを与え、神との結びつきを確かにする「清めの火」でもあると言えるのです。きょうの50節で「受けねばならない洗礼」のイメージが続いているのはそのためでしょう。イエスの到来とそのメッセージは、人々にはっきりとした態度の決断を求めるものです。それは、イエスによって始まっている神の国を受け入れるか、それを拒否するか、という決断です。そこには表面的な平穏さを保つだけではすまないものがあります。

 53 節の「母」と「しゅうとめ」が同一人物なら、登場するのは「五人」です。家族というのは、両親とその息子、娘に、息子の嫁を加えた家族の姿が考えられています。だとするとこの対立は、親の世代と子どもの世代の間の対立であるという見方もできるかもしれません。それは、イエスご自身や弟子たちが経験したことでもあったようです。ここでの終末についての聖書の教えは、神が人間の間に混乱や分裂を引き起こすということを語ろうとしているのではありません。現実にどのような混乱や分裂があっても、それを突き抜けて神の救いが実現する、という希望と確信を表すものなのです。

 人々は自然が知らせる予兆には目を留め、毎日の生活に生かしているが、「 この時(今の時)」を見分けることを知らない。「どうして知らないのか」というイエスの言葉には、「知っているはずだ」という非難が込められています。

 彼らは時のしるしを見分けることが「できない」というよりは、「しない」と言うべきかもしれません。イエスは彼らを「偽善者」と呼んでいるからです。

 イエスは、神と人との裂け目をつなぐ人です。イエスは平和をもたらす信仰の火を「投げるために」地上に来ました。しかし、人々のゆがみのゆえに、イエスは、十字架という「洗礼」によって、この裂け目を一心に身に背負い、神と人の間に平和をもたらします。イエスの十字架は神と人との裂け目を解消するただ一つの架け橋であります。イエスが裂け目を明らかにするのは、架け橋がどこにあるかを示すためであります。真の平和の源泉を明らかにするためであります。

 イエスに目を向けるなら、「神の国が近づいたという決定的な「時」が来ていることに気づくはずです。イエスは多くの病人を癒し、悪霊を追い出し、死者を蘇生させて、神の力が人々の間に働いていることを示しました。 内容的に言えば、きょうの箇所に続くはずの言葉は、「ただ、神の国を求めなさい」(ルカ1131)ではないでしょうか。だとすれば、「火」とは「神の国に対する熱い思い」だと考えることもできるでしょう。イエスがわたしたちに求めているのは、「その火がすでに燃えていたら」ということは、神の国を求める信仰の火がすでに燃えているというイエスの願いを受け止めていきましょう。


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