header
説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2022年8月7日(聖霊降臨後第9主日) 

分かち合うこと、目を覚まして待つこと、神は神の国を喜んで与える

ルカによる福音書12章32-40
 

 

 今日は、二つの大きな段落に分けることができます。一つは、神は喜んで神の国を与えてくださることが前提になっています。神は恐れるな、小さい群れよ、と。イエスはエルサレムへの旅をしていた弟子たちに向けられて語られました。神の喜びとなった小さな群れは、教会共同体に仕える者として、そのあり方を現す者として生きていきます。神の喜びにふさわしい行動がこの33-34節に示されます。その行動とは、この世の持ち物との関係が「売る」ことと「与える」によって表されます。

 まず、この世の持ち物を自分の手から手放し、そして売って、他の人に施します。ここから新しい廃れることのない持ち物との関係が始まります。他の人、すなわち 貧しい人に施すために、持ち物を手放します。そして、「あなたがたの宝」は「天の中に」に作りなさい、と語ります。天は「盗人が近づかない」ところでもあるし、「虫も食い荒らさない」ところでありますから、宝は盗み取られることはありません。財布も擦り切れてぼろぼろになることはないのです。富のある所にわたしたちのこころがあります。気になって、それに執着のあまり悩みます。持ち物からわたしたちは自由になれないのです。だから持ち物を小さくされた人々に施し、持てる者の不安から解き放たれるのです。

帯を締めて(35-36節)

 二つ目は、目をさましていなさい、常に備えていることの重要性が語られています。「腰に帯を締めて」、ということは「いつも帯をしていることによって、あらためて「腰に帯を締めるようにと言われる必要がないようにしなさいという意味です。「帯を締める」とは、仕事の妨げにならないように、当時の衣服である長い外衣の裾をたくしげる状態を指します。何が起こっても素早く対応できることです。

 また、「ともし火を灯していなさい」とあるのは、キリスト者が生きる現在の世のなかを、夜の闇にたとえられる状態だからです。夜が更けても、キリストが戻って来なければ、待ちくたびれて、うたた寝に誘い込まれて、居眠りしても不思議ではありません。しかし、そのような時こそ、腰に帯をして、ともし火を燃やして、しっかりと待ち続けるべきだとイエスは教えます。腰に帯を締めて、どのような状況にも対応できるようにと備えをして、整えるためであります。大切なことはキリストへの熱心さを失わずに待つこと、待ち続けることです。

 キリスト者の待ち続ける姿が、36節では、婚宴から主人が帰るのを「待っている人々」にたとえられています。

 パレスチナでの婚礼は、いつ果てるともなく、長くなるのが普通であります。12週間にわたって続くこともあったようです(創二九27、士一四17、トビ八19)。  

 婚宴が終えて、主人が帰ってくる時刻は見当もつきませんが、主人が帰るのは確かですから、じっと「待つことになります。婚宴のたとえを使って説こうとしていることは、終末が思いのほか遅くなっても、信仰を失ってはならないということを意味します。このたとえのポイントは「婚宴」そのものよりも、いつそれが終わるか分からない不確かさにあります。終末がいつ来るか分からない不確かさであります。終末に備えて、その不確かさをまつのです。

 期限を切って日時を指定できません。いつか分からないので忍耐して待つのです。

主人が給仕する食事(37節後半)

 「まことに私はあなたがたに言う」という重みのある言い回しで始まります。「まこに」は原語では「アーメン」と記されています。「そのようになるように・本当に」の意味です。通常のルカはこの表現を省きますが、ここでは重要な意味を持つと判断したのでしょうか。伝承の通りに残しています。ここが大事な是非伝えなければならないことなのでしょう。

 ここでは、信仰を失わずに「目を覚ましていた」僕たちを「見つけた」主人が食事を振る舞う様子が描かれています。主人みずからが「帯を締め」、僕たちを「食事の席に着かせて、主人が仕える行動をしています。目を覚ましている僕を見つけたイエスの喜びがそれほどまでに大きいからです。

  この食事では、主人と給仕する僕の役割が逆転していますが、それは神の絶対的な最高の贈り物を強調するためです。主の再臨まで信仰に忠実な僕は、神が振る舞う終末の宴会にあずかることができます。

目覚めて待つ

 キリストを信じる者の大切なことは「目覚めて待つ」ことにあります。

 神の国が必ず与えられることを信じて待つことであります。主キリストが準備し、給仕する食事があると知っている者は、信仰に立って、希望という「ともし火」を掲げています。

 従って、「目を覚ましている」僕とは、信仰にしっかりと立って、貧しく小さくされた人と共に生かしていただく人のことであります。わたしたちは、日々神を信じる信仰によって、貧しく小さくされた人と共に歩んでいくことによって、信仰という灯火を灯していきましょう。共に歩むことによってかろうじて消えそうな火がともるのです。


このページトップ」へ戻る