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説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2022年7月31日(聖霊降臨後第8主日) 

貪欲と神の前の豊かさ

ルカによる福音書12章13-21
 

 

 きょうの福音は、共観福音書のうちルカ福音書だけが伝えている話です。

 121節では「数えきれないほどの群衆が集まりイエスが語り始めます。13節の「ある人には「群衆からの」という説明があり、この句によって1節の「群衆」と結びつけられています。群衆の中の名もない「ある人」がイエスの話を遮るという形で物語は進められていきます。彼はイエスを「先生」と呼びます。「先生は「ラビ」の訳語で、ユダヤ教の「教師」を意味します。

 ここで取り上げられている遺産に関する問題はモーセ五書の中で取り扱われています。(申21:15、民27:111、36:79など)。そのため、遺産に関するもめごとがあれば、宗教的指導者や律法学者に相談したのでしょう。

 イエスは遺産相続の調停を断り、真の豊かさがどこにあるのかを、たとえを用いて語ります。豊かな人は、土地が大豊作に恵まれたとき、「作物を取れたがどこにしまおうかと、収納する場所を思いめぐらします。

 15節で「有り余るほど持つのではない持ち物との関係(=施す・共有)」が語られているとすれば、「集める」という物への執着という態度は、イエスが教える態度とは全く逆のものであります。しかも、作物の実りが「私の物」であると理解されているとも読めます。豊かな人は、「私の実りを、私が集めるために、私は何をすべきか」と思いめぐらしています。彼にとって重要なことは、実りを「私の物」とすることであります。

 豊かな人は思案を続けていましたが、ついに決断にしたという経過を表現しています。彼がなそうと決めたのは、「私の倉を私は壊し、より大きいものを私は建て、そこにすべての麦と私の良い物を私は集めることであります。18節では「私の良い物」と述べられましたが、ここでは「多くの良い物」となります。この後にさらに「多くの年のために」と続くことから考え、豊かな人の関心は集められた物の量とそれによる将来の保証に置かれているのが分かります。

 ユダヤ教では、今日の日課のコヘレト書を正典とするかどうかをめぐって大論争となった問題の書であるようです。

 コヘレトは最初から最後まで「空しさ」を訴えていますが、それは他の知恵文学の説く秩序を認めることができないからであります。普通、知恵文学は善人が栄え、悪人は滅びる」という原理に立って、知恵を求めることの大事さを説いています。しかしコヘレトは、この原理の正しさを真っ向から否定します。

 コヘレトは万物の創造者としての神を信じていますが、人間の良い行いが良い結果を生み出し、悪い行いは悪い結果を呼ぶといった必然的な関連性(秩序)を 認めることができないのです。むしろ、「裁きの座に悪が、正義の座に悪がある」のを見過ごしにすることができず、「正義を行う人も悪人も神は裁く」としか言いようがない(3:6-17) しかも現実は身分の高い者が、身分の高い者をかばい、「不正な裁きや、正義の欠如がこの 国にあるのを見ても驚くなと戒めざるをえないのです。

 彼の目には、神は勝手気ままに振る舞う、移り気な存在として、神に祈っても無意味だと考え、「太陽の下、人間にとって、飲み食いし、楽しむ以上の幸福はない」(815)と結論づけます。コヘレトは「知恵が深まれば悩みも深まり、知識が増せば痛みも増す」と述べ、知恵の探求の空しさが風を追うようなものだと言います。

 自分が労苦した結果は誰かに受け継がれるが、その者が賢者であるか愚者であるかを知ることはできない。コヘレトは、将来を自分の努力によって確かにすることのできない空しさを嘆いています。人間は死を免れないという空しさがコヘレトの苦悩の根源にあります。他者を信頼できず、今ある命を超えるいのちを知らないコヘレトは、死という限界を見つめながら「今を楽しむ」。人間の命は空しい。だからこそ、イエスが語るたとえに登場します「豊かな人」は、自分の力でそれを少しでも長く保とうとします。彼は「私の良い物」を集め、それによって自分の「いのち」を守ることができると喜ぶのです。土地の収穫をすべて「私の」ものとして蓄える彼もまた、他者を信じることのできない人間の一人であります。豊かさを自分のためだけに用いる生き方は、神から厳しく非難されます。

 ルカが83節において伝えています。そこには「多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた」と述べ、更にルカは、使徒言行録432節でも持ち物の共有という文脈にこの表現が使われています。そうであれば、この箇所でも、「有り余るほど持つのではない持ち物との関係」が語られているのであり、それは物を施す」、あるいは「共有する」という態度を示していると言えるでしょう。

 イエスは「富んでいるあなたがたは不幸である」(ルカ6: 24)と教えています。富によってすでに慰めを受けている者は、神からの慰めを知ることがないからです。富は容易に人を神から引き離すものとなる。富を「私のもの」として集めるのではなく、その富を「貧しい者のために」用いるとき、人は神が与える「いのち」を生きることができる。

 自分の力でなんとかしよう、人間の力ですべてをうまくやっていこう、とわたしたち現代人は考えます。そのためには、やはりお金が必要だ、ということにもなります。しかし、もし人間の力やお金の力で、すべてがなんとかなると感じているならば、おそらく「神は不要」になるでしょう。人間の無力さや限界を知るということはそういう意味で大切なことです。おそらく、人間にとってもっとも顕著に「無力さ・限界」を感じるのは、死に直面したときです。そして「今夜、お前の命は取り上げられる」、それは、いつ自分の死が訪れるか、本当はだれも知らないのです。その時、富は頼りにならない、本当に問われるのは「神の前に豊かになる」ということなのだ、とイエスは語ります。

 イエスご自身が、十字架の死に向かう中で、そのような「いのちの質」を極限まで生き抜かれました。「神の前に豊かになる」いのちとは、イエスの十字架の中にあるいのちなのです。イエスを信じ、イエスとともに歩むこと、これが信仰なのです。


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