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説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2022年7月24日(聖霊降臨後第7主日) 

主イエス、祈りを教える

ルカによる福音書11章1-13
 

 

 きょうの福音は、ルカ福音書の神の国について語り続ける旅、また十字架を経て天に向かうエルサレムへの旅の中のところです。「祈り」についての教えですが、イエスの時代のユダヤ教の各グループには、それぞれのグループの特徴を表す典型的な祈りがあったようです。祈るイエスの姿を見た弟子たちはイエスに「わたしたちにも祈りを教えてください」と願います。洗礼者ヨハネは自分の弟子たちに独自の祈りを教えており、その祈りが彼のグループを他から区別するしるしとなっていたようです。イエスの弟子たちが祈りを与えてくれるようにと願ったのは、イエスに従う共同体としての自覚が芽生え始めていたからであろう、と言われています。

 「父よ」。マタイの並行箇所(6:9)では「天におられるわたしたちの父よ」。イエスの使っていた言葉はギリシア語ではなく、アラム語(ヘブライ語)で語ったと言われていますが、そうであれば、ここでの「父よ」はアラム語のアッバであったといわれています。アッバは「元来、家族間で使われていた言葉で、年少の、または成人した子供が父親に用いた語りかけでありました。そこから年老いた男性に尊敬を込めて用いられた語りかけでもあった」ようです。ユダヤ教における祈りには神を「父」と呼ぶ多様な表現がありますが、アッバが用いられることはないのです。しかし、イエスは特別な親しみを込めて「アッバ」と神に呼びかけるのです。この呼びかけに端的に現れているように、イエスの神は、親しみやすい慈愛に満ちた方であるのです。

 「主の祈り」は新約聖書の中に二つの形で伝えられています。このルカと、もう一つはマタイ69-13節です。ルカの方は、古く原型にちかいのではないかと言われています。マタイの方がまとまっていて、教会の祈りに用いられています。この祈りの最大の特徴は、「父よ」という単純な呼びかけです。

 マタイにおける「天におられるわたしたちの」は礼拝の中で唱えられていくうちに付け加えられた言葉ではないかと考えられています。

 イエスはこの親しみを込めた呼びかけに続けて、五つの祈りを教えますが、初めの二つは神のための祈りであります。

 「み名が崇められますように」は直訳では「あなたの名が聖とされますように」です。「名」は単なる「呼び名」ではなく、そのものの本質を表します。だから「神の名」とは「神ご自身」の意味なのです。「神が救いの力を示すことによって、ご自分が神であることを現す」という意味になります。

 「み国が来ますように」は「神の心がすべてになりますように」ということだと言ってもよいでしょう。マタイ福音書は「み心が天に行われるように地にも行われますように」という言葉を付け加えていますが、これは「み国が来ますように」を言い換えたものだと考えることができます。

 御名があらゆる場所で崇められ、また御国、すなわち神の支配が来るように、これは神による救いの完成を願う祈りであります。続いてわたしたちのための祈りが三つ続きます。必要な糧が毎日与えられ、罪が赦され、誘惑へと引き込まれるのを見逃さないようにして欲しいという祈りであります。

 「必要な糧」とは、ここで生きるために必要なすべてを願っています。なお、ルカが「毎日」というところをマタイでは「きょう」と言います。「きょう」というところに緊急性があります。

 神に罪を赦してもらうためには 自分も常に他人を赦す心構えが必要であります。「わたしたちの罪を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから」の祈願はマタイと少し違います。マタイのほうを直訳すると「わたしたちも自分に負い目のある人をゆるしましたから」となります。現在聖公会で用いられている訳は、後半が「わたしたちも人をゆるします」となっていて、前半とのつながりがはっきりしないかもしれません。これは「ゆるす」と宣言しているのではなく、「ゆるしてください。そうすれば、わたしも人をなんとか赦したいし、赦すことができるようになるからです」というニュアンスで受け取ればよいのではないでしょうか。「わたしたちを誘惑に遭わせないでください」は切羽詰まった叫びのような終わり方です。マタイはこれに「悪から救ってください」という言い換えを付け加えて、礼拝にふさわしい形を整えています。誘惑が来ることは避けられないのですが(ルカ171)、ただその中で、神から離れてしまわないように守ってください、という祈りだと受け取るべきではないでしょうか。

 5-8節のたとえ話は、ルカの教会は異邦人の教会ですから祈りの必要性そのものを教える必要があったのでしょう。そこで「とにかく祈りなさい。神は必ず聞いてくださるのだ」ということが強調されています。9節「求めなさい。そうすれば与えられる…」は有名なことばです。神が必ず祈りを、人間の叫びを聞いてくださるということが大切なのです。5-13節では二つのたとえが語られますが、その間(9節)に、求めなさい―与えられる。探しなさい―見つかる。たたきなさい―開かれる。求めるものは受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれるというように、人間が取るべき姿勢を述べています。その前後にたとえが置かれていますが、最初のたとえでは、真夜中にパンを求めて友人の家を訪ねる人の話が語られ、後のたとえでは子供に魚や卵を求められた父親の話が語られます。

 13節には、人間は不完全さをもっていますが、父親は子供には良い物を与えようとします。そうであれば、完全である天の父は地上の父よりもさらに良い物、すなわち「聖霊」を与えてくださいます。ルカにとって「聖霊」は迫害される者に語るべき言葉を与え、困難を乗り越えさせる力であります。人がひたむきに祈るなら、神はいつも誠実にその願いに応えようとされます。神の国の宣教に赴く弟子たちは、順境にも逆境にも出会いますが、どんな時にも祈り求めて与えられた聖霊によって常に新たにされ、先へと向かう力を受けます。イエスを信じ、その教えを宣べ伝える者に必要とされることは、慈愛の神に「父よ」と呼びかけて祈り、執拗に「求め、探し、たたく」ことであります。そうすれば祈りに誠実に応えてくださる神は必ず聖霊を送り、必要な助けを与えてくださいます。信じて祈っていきましょう。


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