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説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2022年7月17日(聖霊降臨後第6主日) 

マルタとマリア

ルカによる福音書11章38-42
 

 

 先週の「善いサマリア人のたとえ」同様に、今日の福音もエルサレムへ向かう旅の途中での出来事でした。

 きょうの箇所も、福音書の文脈の中では、「イエスの語る神の国の言葉を聞く」ということが中心的なメッセージになっていると言えます。

 基督教会では、伝統的に、マリアを「聞くタイプの人間」、マルタを「行動的な人間」の典型と見なされてきました。それは「聞く方のタイプが優れている」という見方にもつながってきます。「どうせわたしはマルタですから」「マルタになっていました」という言葉をよく耳にします。

 しかし、クリスチャンは「仕えなさい」というように言われています。だから、マルタになっていました、というのも決して良くないとは言いにくいのです。

 今回はこの短い物語の視点を変えて、反対側の立場からともにみ言葉に聞いてみたいと思います。

 マルタのようにもてなすことよりも、マリアのように主の言葉を聞くことのほうが大切だとイエスは考えているのでしょうか。もちろん、自分の言葉を聞いてほしいと思っていたことでしょう。マルコ1043-45節「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」。もし、マルタの奉仕自体が問題でないとするならば、問題は彼女がイエスに向かって不平不満をいう態度、あるいは妹を評価しない彼女の姿勢なのではないでしょうか。

 イエスはマルタの奉仕そのものを否定しているのではないということも大切です。「もてなす」はギリシア語で「ディアコネオー」ですが、この言葉は「仕える、奉仕する」とも訳される言葉で、イエスとイエスの弟子たちの生き方の中心にあるものを表す言葉です。

 わたしたちの聖公会も「教会の五つの指標の中に、コイノニア、仕えること」が中心になっています。

 もう少し掘り下げて、この譬えの背景にある当時のユダヤ社会の固定された男女間の役割について見ていきましょう。イエス時代の男女の役割には明確な区別がありました。宗教的な勤めは第一に男性がすべきことであり、女性には聖書を学んだり、礼拝するという義務がありませんでした。

 「役割分担」と説明すれば、現代人のわたしたちは、理解したようになりますが、固定的な関係の中で女性はまったく従属的な位置に置かれ、神に仕える男性に奉仕することが要求されたのです。このようなことを考えると、マルタのしていたことは当時の女性として当然の役割を果たしていたということになるでしょう。

 一方のマリアのように家事もせずに、先生の話を聞くというのは女性としては批判される対象になります。女性の義務を放棄した何もしない女性だからです。マルタの不満は当時の社会の常識からすれば当然とも言えます。

 日本でも50年前なら、このような女性はとんでもない女性と言われるでしょう。この50年間に男女の関係性は随分変わりました。

 ここでイエスはそのような男女の役割分担を否定して、マリアの態度を弁護しています。それは「男も女も神の言葉を聞いていいのだ。それは誰にでもできることであり、それがもっとも大切なことなのだ」という画期的な宣言だと言えるのです。これがきょうの教えの中心になるでしょう。

 マルタは当時の常識からマリアを非難しているのです。しかし、それだけではないのです。マルタの心の中にあった思いは、不満は、「自分も本当はイエスの話を聞きたいのに、女だから仕方なく家事をしている」という不満があったことです。

 マルタは「家事なら誰にも負けない。わたしは働き者で、マリアは怠け者だ」という優越感もあったのでしょう。「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」というイエスの言葉は、料理のことだけでなく、このような優越感と劣等感の狭間で悶々として、ストレスと感じているマルタの心の状態を指摘しているのではないでしょうか。

 イエスの言葉はマルタにとって耳の痛いものであったかもしれません。しかし、固定化された男女の役割分担に縛られ、人と人との比較の中でしか自分や姉妹を見ることのできなかったマルタにとって、そんなものから自由になる本当の「福音」だったのではないでしょうか。
 わたしたちの日常生活においてもルカ1040節のマルタの言葉のように、「主よ、こんなに変なことが起こっているのに、あなたはなんともお思いになりませんか?」と言いたくなることがあるのではないしょうか。マルタはそういう思いをストレートにイエスにぶつけるタイプの人なのです。それでも「マルタよ、マルタ」と主イエスはやさしく呼びかけます。
 マルタの聞いた永遠の命を受けるにはどうすればよいのでしょうか、という短い言葉が、今のわたしたちに伝えられています。その言葉とは「必要なことはただ一つだけである。マリアはその良い方を選んだのである。」先週の「良いサマリヤ人の譬え」では、神を愛すること、隣人を愛することを学びました。きょうは神をあいすることの具体的な在り方が語られています。神を愛するとは、神の声を聴くことです。わたしたちにとってなくてはならないものは「ただ一つだけである」悔い改めて、神の声を聴き歩んで行きましょう。


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