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説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2022年7月10日(聖霊降臨後第5主日) 

神への愛と隣人愛

ルカによる福音書10章25-37
 

 

 エルサレムへの旅の途上でのこの個所は、ルカ福音書だけが伝える話です。この旅は十字架を経て天に向かう旅(951)であると同時に、神の国を告げる旅(96062節、109)でした。聖霊降臨後の主日には、毎主日、神の国が宣べ伝えられていました。先主日はあなたがたの名は天に書き記されていることを喜びなさいとありがたい言葉で閉じられました。

 きょうの福音の27節で律法学者がイエスを試そうとして、「何をしたら永遠の命をえられるか」と尋ねます。律法の書に何と書いてあるか、それをどう読んでいるか」と逆に問いかけます。すると律法学者は申命記65節から聞け!イスラエルよ、というシェマの祈りを引用して、「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また隣人を自分のように愛しなさい」と答えました。それに対して、イエスは「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすればいのちが得られる」と言っています。

 神への愛と隣人への愛という2つの掟が重要であるという点では、イエスと律法学者との間に意見の違いはありません。律法学者は問いかけます。「隣人とは誰ですか」隣人に興味がなかったのか、隣人の定義すらしていいなかったようです。そこでイエスは「善いサマリヤ人」の譬えを話されました。

 祭司は「彼を見て、反対側を通り過ぎて行った」。当時、祭司は 24のグループに分かれて、エルサレム神殿で勤めに就いていました。祭司グループの勤めは一週間づつ続く輪番制だったので、年に二回、神殿で働いたことになります。奉仕をする近くに住むという意味で、エリコには祭司グループの居住地があったと言われています。そうであれば、神殿での勤めを終え、家路を急ぐ祭司であっただろう。と考えられます。

 レビ人は強盗が現れる近くに来て、そこが危険な場所であると気づいて、反対側を通り過ぎて行きます。レビ人の目は倒れた人には向かいませんでした。しかし、サマリア人は傷ついた人の下に来て、それの状態を見て、憐れに思い、そして近づいて行きました。

 強盗に襲われた人はおそらくユダヤ人だと思われます。地位ある祭司やレビ人は助けを必要としている同胞を見過ごしにしましたが、ユダヤ人がほとんど異邦人と見なして軽蔑していたサマリア人は彼を助けるために行動を起こしました。「見て、憐れに思った」サマリア人は危険を顧みずに「近づいて」行きました。「憐れに思う」はギリシャ語でスプランクニゾマイといいます。「腸が千切れるほどの深い共感」を表します。

 放蕩息子のたとえでは、「帰ってきた息子を見つけて、「憐れに思い」、走り寄る父親の心の思いに用いられています。放蕩息子の父親は、人を憐れむ神を表していると思われます。そのことを考えると、善いサマリア人は永遠の命を手にする模範的なキリスト者を表す、という前に、人の命を救うイエスと神を表しているのです。

 ルカ福音書では、サマリヤ人の譬えと「いなくなった息子の帰りを喜ぶ父」の譬えの中に、「見て、憐れに思い、近寄って」という同じ言い回しが用いられています。(10:33-3415:20)。神の愛は「見て、憐れに思い、近寄って」、傷ついた人を命の危険から助け出し、生きる術を失った人を迎え入れて命を守ること、神の憐れみは、生きる場を失う者に一方的に与えられることをルカはこの表現によって表します。

 29節では「私の隣人は誰ですか」という律法学者の問いでしたが、イエスは「誰が隣人になったと思うか」と尋ねます。

 何が大切な掟かという点でイエスと同じ意見でも、隣人愛の掟の受け止め方は大きく違います。律法学者は次のように考えたようです。「そもそも『隣人』とはすべての人の意味ではなく『近くにいる人』の意味である、と。ではどの範囲までが隣人なのか」律法学者が考えました。なぜこんなことを考えたのでしょうか。それは彼らが律法を忠実に守ろうとするがゆえに、この隣人愛の掟についても忠実に実行しようとしたからです。彼らは隣人を愛するためには、愛の対象者である「隣人とは誰か」を明らかにしなければならないのです。そこには汚れた人が含まれていないのです。「隣人」という言葉自体は、本来身近な人を指します。イエスがいつも問い続けたのは、神の望みであり、神のみこころでした。「律法の字句をいかに正しく解釈するか」というのではなく「そこに表されている神のこころは何か」ということをイエスは問いかけます。「わたしの隣人とはだれですか」という問いに、イエスは「だれが隣人になったと思うか」と問い返されます。神が求めていること、神の望みが、「隣人の範囲を決めて、隣人愛の掟を守る」ことではなく、「目の前の苦しむ人に近づくことによって、隣人になっていく」ことであるのは明白です。「強盗たちの中へ落ち込んだ者の隣人になった」のは、同胞ではなく、サマリア人でした。同胞であるか否かではなく、「見て、憐れに思う」、腸が千切れるほどの深い共感をもつ心が、人を隣人とするのです。律法の専門家は「憐れみを行なった人」と答えて、隣人となるために必要なものを端的に言い表しています。

 37節は「実行しなさい」と命じています「ほかの誰でもない「あなた自身が行ない続けなさい」と命じています。助けを必要とする人の隣人になるのは、ほかの誰かではなく、「あなた自身」であります。「私の隣人は誰か」と言って、行動を起こさない者ではなく、「隣人になる」「憐みを行なう」という生き方を続けていくことが求められています。主は私たちにこの恵みを与えてくださいと祈りましょう。もうすでに神の国が始まっていると語っておられるのです。


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