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説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2022年7月3日(聖霊降臨後第4主日) 

72人の派遣と悔い改めない町

ルカによる福音書10章1-12,16-20
 

 

 先週は、弟子になるための心構えについて、その前の週は、日々十字架を背負いわたしに従ってきなさいとうことで、弟子になることキリスト者のイエス様に従って行くことの内実について語られていました。ルカ福音書では、ガリラヤからエルサレムへ向かうイエスの旅は、951節に始まり、1944節まで続きます。この部分でルカは、マルコ福音書にはないさまざまな出来事やイエスの言葉を伝えています。

 きょうの箇所は先週のルカ951-62節の続きで、ルカはQ資料の72人の弟子が派遣される場面から始まります。共観福音書のマルコ67-12節とマタイ105-42節、そしてルカ951節は、12人の派遣の記事になっています。ルカのこの101節は、72人になって2か所に分けられています。共観福音書を比較すると、共通する部分と多少異なる部分があります。マタイは、マルコを基にして、複数の伝承を一つの長い派遣説教としてまとめていますが、ルカはそれを2回の派遣に分けたと考えられます。ルカが「イエスを証しする者の派遣」を二度も繰り返したのは、全世界への宣教のための派遣というテーマが重要だからであると考えられます。マタイでは宣教活動の対象は、ユダヤ人に限定されていますが、ルカ福音書では、72人は「すべての町や村」に遣わされています。これは全世界を視野に入れた表現であります。「全世界に広がる、キリストへの信仰は、ルカが著したもう一つの著作であります使徒言行録にも共通している主題でもあります。

 「72人の派遣」は三つの段階に分けて語られています。それは「旅路」での態度、「家」での態度、そして「町」での態度です。これによって「宣教する者」の姿が具体的に示されています。彼らは何よりもまず「願う人」でなければなりません。旅を続けながら、収穫の主である神が働き手を送ってくれるように祈ります。「収穫は多いが、働き手が少ない」という現実があるからです。イエスは彼らに「行きなさい」と命じるより前に、願いなさい」と教えています。神の国の宣教は遣わされた者たちだけによる行為ではなく、むしろその者たちを通して働く神ご自身の活動だからです。宣教に向かう者の背後には、イエスと神がついているのです。

 無力な人間の宣教活動には常に危険が伴います。だから、弟子の派遣は狼の群れに小羊を送り込むことにも等しい行為である。と心配されているのです。しかし、主に派遣されたことを思い起こすならば、慰めと励ましの中で、使命を遂行することになるのです。マルコ69節では、はっきりと履物は履くように命じられていますが、「財布も袋も履物も持って行くなという指示も、それが神からの派遣であります。

 なぜなら、今日の福音にあるように、必要なものは出かけた先で与えられるからです。「その家に泊まって、そこで出されるものを食べ、また飲みなさい。働く者がその報酬を受けるのは当然である」。と記されています。「自分の面倒は自分で見て、できるだけ人の世話になりたくない」というのが、現代のわたしたちの普通の感覚かもしれません。イエスの弟子の道はそうではないのです。自分の力によるのではなく神と人々の好意に頼って生きていく道なのです。それはわたしたちにとっても、本当は大切な生き方を指し示しているのではないでしょうか。神の働きは、彼らが何も持たないことによって明らかにされています。

 彼らは道中で交わす挨拶も禁じられています。それほど急を要する派遣だからです。神の国の到来を告げる宣教者は、ただひたすら道を急がねばなりません。挨拶もせず、まっしぐらに目的地に向かい、家に迎えられたときには、まずは「平和があるように」と告げます。「御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた」とありますから、人々がイエスに出会うための準備としてわたしたちは遣わされていると言うこともできるのでしょう。

 弟子たちは、戦いや論争や挑発のために出かけるのではなく、「あなたがたに平和がありますように」と出会う人々との間に平和を作りだすことが求められています。ただし、いつでも良い関係が作れるとは限りません。それはこちらが平和を願っていても、相手のほうが拒否するということがあるからです。そんなとき、相手を責める気持ちにもなります。でもここでは、そんなことに振り回されない、という生き方が求められているようです。

 パウロも十字架についての見方も「世」とは異なったものとなります。十字架に神の救いを見たパウロにとって、世の人が目指す、富や見栄のために地位を目指す生き方こそ十字架に磔にされるべき生き方です。しかし、十字架を「つまずき」と断じたり、「愚かなもの」と評価したりする世の人から見れば、パウロこそ惨めだと見なされます。彼はまさに「世に対して磔にされた」者なのです。しかし、十字架の背後に神の救いを見るパウロは、ガラテヤ書の614節の「このわたしには、わたしたちの主イエスキリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません」と述べ、世との対峙をはっきりと宣言します。「神の国は近づいた」と言いなさい

 なお、11節の「足の埃を払い落とす」は確かに絶縁を意味する動作です。危険な人とはきっぱりと分離すべきです。弟子たちの使命の中心は、病人をいやし、「神の国はあなたがたに近づいた」と宣言することです。「かの日には、その町よりまだソドムの方が軽い罰で済む」と、悔い改めなかった町の裁きについて語られています。焼き尽くされるより重い罰があるのでしょうか。

 17節以下の「悪霊」「蛇やさそり」「敵」は神に敵対し、人を害するものです。イエスは悪の支配が終わり、神の支配、王国がすでに始まっているのを見ています。「あなたがたの名が天に書き記されている」神の国の支配に与る者となったのです。喜ぶべきは、神の国の一員になったことです。天に名が書き記されていることを主に感謝してあゆんでいきましょう。


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