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説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2022年6月26日(聖霊降臨後第3主日) 

弟子の心構え

ルカによる福音書9章51-62
 

 

 きょうの福音は弟子になるための心構えについて、先週は、日々十字架を背負いわたしに従ってきなさいとうことで、弟子になることキリスト者のイエス様に従って行くことの内実について語られていました。ルカ福音書では、9:51節にエルサレムへ向かう決意を固められたと、ありますように

 ガリラヤからエルサレムへ向かうイエスの旅は、951節に始まり、1944節まで続きます。この部分でルカは、マルコ福音書にはないさまざまな出来事やイエスの言葉を伝えています。

 きょうの福音は、旅行全体の序章として、これから先のことを予想しています。

 エルサレムへの旅立ちを天への旅立ちとし、これは受難の道として人々からの拒否にあうことを示唆しています。イエスは天に上げられる時期が近づいていることを悟ります。天に上げられると言いますのは、イエスの苦難、すなわち受難と死を通して、のちに栄光を受けます。すなわち復活と昇天するまでの間をエルサレムでの出来事のすべてを指しています。

 時期が近づくことは、原語では直訳しますと「共に満たされる」ということでありますが、死と復活・昇天という、過程は、神の計画が実現することであります。

 イエス一行は、ガリラヤからエルサレムに向かうためにはサマリアをとっていかなければなりません。

 サマリアは地理的にユダヤとガリラヤの間に位置しています。サマリアは、ヨルダン川西岸の地域にありました。民族的宗教的理由から、サマリア人とユダヤ人は互いに対立関係にありました。たとえイエスと弟子たち一行は、エルサレムを目指していなくても歓迎されないような事情がありました。

 サマリアの地を通過することを断られたイエス一行のうちの二人の弟子は、「天から火を降らせ彼らを焼き滅ぼしましょうか」言います。この「天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼす」という句は、列王記下1:10-12の「エリヤが、サマリアの王の部下を天から火を降らせて焼き滅ぼした伝承に由来しています。

 この二人の弟子ヤコブとヨハネはマルコ3:17で「雷の子」というあだ名で呼ばれていますが、その名にふさわしい過激な反応であります。

 次に、弟子の覚悟が問われる出来事があります。

 一行は道を進んで行くと、三人の人がイエスに従って行く意思表示をします。最初の人は「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と無条件にどこへでも従って行くと言いました。イエスは彼に向って人の子イエスの現状を教えるために「狐には穴がある。人の子には頭を横たえて寝るところもない」と、宿を拒絶され、安らぐとこともないと告げました。人の子がそうならば、従う弟子たちも同じ境遇に置かれる。という覚悟をイエスが求めています。

 イエスは、別の人に「わたしに従いなさい」といいました。これはラビの弟子入りの用語と言われています。弟子はラビから律法を学ぶために弟子入りをします。しかし、イエスへの弟子入りは、彼の教えを学ぶだけではなく、イエス自身を信じ期待し、イエスを弟子の心の中心にすえることであります。

 この二番目の人は父の葬儀が終えてから従おうと考えていたようですが、当時、死者の埋葬はすべてに優先する宗教的な義務とされていました。「父を葬りに行かせてください」という願いも「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」といわれました。

 このような言葉は、「ユダヤ教徒にとって躓きです。十戒には父と母を敬うことを命じられています。肉親の葬儀を丁寧に行うことが父系社会のユダヤ教にとって大切でありました。この教えに対立するイエスの返事はユダヤ教の根幹を揺るがす発言でもありました。ここでのことがイエスの弟子になることが世の中の反発を買う者でした。このイエスを自分の心の中心に置くこと、そういう覚悟の上で従うことでした。イエスに従うことは、父と家族の絆から離れて、「神の国の宣教をすることです。弟子となることは、イエスの働きを受け継いでいくことであります。

 三番目の人は、「家族に暇乞いに行かせてください。」と願いました。イエスはその人に「鋤に手を掛けて後ろを振り返る者は神の国にふさわしくない。」といわれました。

 きょう読まれました列王記上19:19-21「エリヤはそこを去って行くと、シャフトのエリシャがいるのを見かけた。エリシャは12軛の牛を前に畑を耕していたが、彼は十二番目の牛と共にいた。エリヤはその場を通り過ぎるとき、自分の外套をエリシャに投げた。 するとエリシャは、牛を打ち捨て、エリヤの後を追い、「どうか父と母に別れの口づけをさせてください。それからあなたに従います」と言った。エリヤは行ってきなさい。私があなたに何をしたのかというのか」と答えた。」

 「これはエリシャも牛を使って鋤に手をかけていました。エリヤの弟子に招かれて、エリシャは父母への暇乞いを願いました。エリヤはそれを聞き入れました。しかし、イエスは、その願いは神の国に相応しくないと答えました。神の国を宣教するイエスの弟子になるには、家族の絆すら犠牲にすることを望まれます。イエスが復活によって、すべての人の主に、ユダヤの民族宗教の枠を超えること、民族宗教の基礎的集団である家族の絆に束縛されないものであるということでした。まったく新しいイエスの弟子に呼ばれることの心構えです。


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