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説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2022年6月19日(聖霊降臨後第2主日) 

イエスとは何者だ

ルカによる福音書9章18-24
 

 

 イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。イエスが祈っていたときに弟子たちが共にいたという、奇妙な情景が浮かんできます。これは、祈るイエスを強調するためにこういう表現をしているようです。イエスが一人で祈るとき、それは何か重要なことが起こるときに用いられるものであります。

 これは他の共観福音書に比べて、ルカ福音書の特色とも言われています。

 たとえば、イエスの洗礼のとき、12人を選ぶとき、山の上の変容の時、主の祈りを教える時、受難の前、そして、十字架の死の直前に祈っています。

 祈りを終えたイエスは、人々のイエスに対する見方を弟子たちに尋ねます。「洗礼者ヨハネだ、エリヤだ、昔の預言者」という者もいました。このイエス像は、領主ヘロデが聞いていたものと同じであります。

 イスラエルの王は神に選ばれた者であり、救いのために聖別され、神の国を打ち建てるべきメシアである。ユダヤ人の多くは、イスラエル王国は再建する政治的な王としての「メシア」を期待していました。

 「主のメシアである」は、民の救いのために聖別した者を意味していました。イスラエルの王は神に選ばれたものであり、救いのために聖別され、神の国を打ち建てるべきメシアであります。弟子たちにおいても同様であります。イエスは、苦しむメシアであります。しかし、人々は、イスラエル王国を再建する政治的な指導者として、受け止めています。だから沈黙の命令を与えなければならないのです。イエスは、奇跡を起こしてきた、そのような力があるなら自分を救ってみろ、といわれます。しかし、ルカの描くメシアは、苦しみを捨てられること、殺されること、復活させられることがなければならない。これは神の意志に基づく必然性であります。

 並行箇所マコ8:32-33と比較すると、不完全であっても、弟子たちはイエスを「神のメシア」と理解したことが示されています。マルコでは、受難と復活をイエスが予告した後に、そのことをはっきりとお話しになりました。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めました。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と述べて、イエスがペトロの思い違いを叱っています。しかし、ルカでは23節以降の「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい…」を弟子たちも理解できるような強い勧めにしています。イエスは苦しみを受けて復活する「神のメシア」であります。イエスはまず、「このことを誰にも言わないように」と沈黙を命じ、「神のメシア」に対する誤解が広まらないようにしてから、イエスが「神のメシア」としてどのような道を歩むのかを教えます。

 神のメシアとは、苦しむこと、捨てられること、殺されること、甦ることがなければならない。「なければならない」は、義務としての行為も表しますが、ここでは行為の必然性を表します。復活だけでなく、苦しみ、捨てられ、殺されることも、すべてが神の計画に含まれています。

 イエスは真の救いをもたらすために、苦しまなければならなりません。「神のメシア」という表現は、神の意思に従うイエスと神との緊密な交わりを表しています。「神のメシア」は、ルカ福音書2335節にもう一度現れます。そこでは、議員たちが「神のメシアなら、自分を救え」と、十字架につけられたイエスを冷笑します。敵の手からイエスを救い出し、苦難から守るのではなく、むしろイエスが「苦しみを受け、排斥され、殺される」ことにイエスと神の緊密さが現されています。苦しみを経なければ、「復活」という神がもたらす救いが明らかにならないからです。

 三日目に蘇るは、神の救いの確実性を表すために用いられています。苦しむ義人は、神に見捨てられることなく、必ず救われるという意味で「三日目」は用いられ、用いられます。ホセア6章2節で「二日の後、主は我々を生かし、三日目に、蘇らせてくださる。我々は御前に生きる」。と記されています。

 24節でイエスに従う者のあり方について教えておられます。私の後ろに来ることを望まれます。イエスの「後ろに来る」ためには、「自分を捨てる」こと、「その十字架を日々取る」こと、「私に従う」ことの三つが必要であります。これらの指示は別個のものでなく、同じ一つの姿勢を描いています。イエスが神の意思に従って、「苦しみ、捨てられ、殺される」ことを担ったように、イエスの後ろに来たいと望むなら、人は「自分を捨てる」ことが必要であります。「自分を捨てる」とは自分の利益になることだけを求める自分を捨てることであります。ここでの十字架は「日々、負い続ける」ものであるから、殉教を指しているのではなくて、イエスの後ろに来ることによって起こるさまざまな困難を意味しています。神とイエスとの交わりが苦しみを抜きにしてはありえないように、イエスとイエスに従う者との交わりも、十字架を通して可能になります。

 日常の生活の中で、イエスの教えを守ることを意図しているのでしょう。そのような生き方は自分自身のいのちを守る生き方を捨てることにつながります。捨てるべき「いのち」があり、それによって救う「いのち」がある。どちらの「いのち」を生きるのかは、イエスの真の姿に出会うことができるか否かにかかっています。イエスのためにこの世のいのち、身体としての生命を捨てるとき、まったく次元の異なる苦しみの後に、与えられる復活のいのちを生きることが約束されています。主よ、どうか、あなたのいのちのうちに歩んで行けることができますように。


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