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説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2022年5月29日(復活節第7主日) 

イエスと共にある イエスの祈り

ヨハネによる福音書17章20-26
 

 

 主イエスの復活後の大いなる50日も終盤の主日になりました。ヨハネ福音書17章でイエスは父である神に向かって祈ります。『父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください』」(1)1-5節の祈りの中で、イエスはまず、父である神とご自分との深い一致を確認するのです。神と人との間に立ち、とりなしを願う大祭司のように、イエスは世に残される弟子のために祈っています。イエスが神から遣わされたこと、神が人を愛したことを世が信じ、知ることをイエスは祈っています。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」(3 節)とあるように、今は敵対し、イエスの言葉を聞くことができないこの世が変わることを、世が「永遠の命」にあずかる者となることをイエスは祈っています。

 この大祭司の祈りの最期を締めくくる20-28節では、特に弟子たちの共同体が一つになるようにという言葉が強く打ち出されています。

 ここでは「彼らの言葉によってわたしを信じる人々のために」イエスは祈ります。後の時代のわたしたちのための祈りだと言えます。ヨハネの教会は、すでにキリスト教の第二世代、第三世代によって構成されていました。それは生前のイエスの最後の日の祈りというよりも、むしろ、目に見えないですが、今もわたしたちのうちに生きておられるイエスの執り成しの祈りと言うべきかも知れません。「すべての人を一つにしてください」とイエスは祈りますが、しるしを見て信じるという不完全な信仰よりも「キリストを信じるすべての人」のための祈りです。この信じる人々の一致は、「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように(21)と言われる一致です。互いが互いのうちに住むという、イエスと父との一致に与るって一つとなることを祈られています。

 22節でイエスが栄光を弟子たちの共同体に付与したことが語られます。それこそが世を信仰に導く根源なのです。ヨハネの教会には、生きたキリストが栄光のうちに臨んでおり、父と子なるイエスとの一体性が啓示され、共同体の一体性はその父と子の一致と栄光を現わしています。

 24節から結びの部分になります。父と子の一致に弟子たちの共同体が与ることは、究極的にはイエスのいるところに共にいることによって完成されます。しかし、再びその敵対性を表します。世もまた、ユダヤ人は神を啓示したイエスを拒絶してしまいます。イエスを拒絶することで、神を知っていると言いながらその実は神を知らない不信仰な存在であることを自ら暴露しました。イエスは父を知り、一体であることを知り、しかも弟子たちの共同体は、イエスこそ神から派遣された子なる神であることを知っています。むしろイエスも弟子たちもこの「世」に「遣わされた者」です。神の望みはすべての人が愛と平和のうちに生きることです。そのためにイエスの弟子は世に派遣され、神の愛とイエスの愛をあかしするのです。

 世に遣わされたイエスは業と言葉によって御名を世に示しましたので、イエスが「みもとから出て来たことを本当に知り」、神がイエスを「お遣わしになったことを信じた」人々も現れ、神の栄光を知った人々が生まれました。

 しかし、「父よ、時が来ました」(1節)とイエスが述べて、「今」は十字架に上るべき時であること、十字架は、神の栄光を明確に示す出来事であります。それは暗闇に消える死ではなく、神のもとに帰る凱旋だから栄光を現わすのです。

 イエスの直弟子の言葉によってイエスを信じる者になる人々のために、イエスは「あなたが私の中に、私があなたの中にあるとおりに、すべての者が一つであるように」と祈ります。イエスが神から遣わされたこと、神が人を愛したことを世が信じ、知ることができるようにイエスは祈るのです。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」(3 節)とありますように、今は敵対し、イエスの言葉を聞くことができないこの世の人びとが変わることを、世が「永遠の命」にあずかる者となることをイエスは祈っています。イエスの亡き後、

 イエスの直弟子が「世」に残されて、イエスの使命を受け継ぐことになります。神はその彼らを「世から選び出して」イエスに与えたのです(6節)。

 イエスの直弟子もかつては世に属していましたが、「今は」イエスが誰であるかを知って、世に属さない者となったのです。

 直弟子はイエスの「業と言葉」を伝え、彼らの言葉によって信じる者が生まれるのです。直弟子も次の世代も、イエスを信じる者すべてが一つとなり、神とイエスとの交わりに生きていることを示すとき、イエスとの交わりに生きるものとなります。

 聖餐式のサクラメントは、キリストとわたしたち、キリストに結ばれたわたしたち同士の深い一致のしるしです。一つの食卓を囲み、一つのパンと一つの杯に共にあずかり、神からいただく恵みを皆が分かち合うところにある一致を表すものなのです。

 信仰共同体である教会は、この地域に派遣されています。み言葉をもって地域に貢献することもその一つと言えるでしょう。


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