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説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2022年5月15日(復活節第5主日) 

新しい命令

ヨハネによる福音書13章31-35
 

 

 第5主日から大いなる50日と言われる復活節もいよいよ後半に差し掛かってきました。イエスは世を去るにあたって、弟子たちに向けて遺言のような長い説教をしました。その中で一貫して語られていることがあります。一つは、イエスが栄光を受けることと、もう一つは、愛による共同体を形成していくことです。そして、「わたしは去っていくが、あなた方と共にいる」という約束が語られます。

 ヨハネ13章に、最後の晩さんの席でイエスの言葉があります。26節・27節でイスカリオテのユダがイエスからパン切れを受け取り、彼にサタンが入った裏切る人物であることを明らかにしました。しかし、弟子たちはそのことに気づいていませんでした。ユダはパンを受け取ると出ていきました。

 きょうの福音は、31節から始まります。「さて、ユダが出ていくと、イエスは、今や人の子は、十字架と復活における栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。」と記されています。ユダの裏切りとイエスが栄光を受けることが繋がっています。ユダの裏切りは、イエスの栄光を受ける時が来たことを示すものです。

 しかし、日本語のもつ「栄光」という言葉には輝かしい成功のイメージがありますので、受難の時が栄光の時だということは理解しにくいのではないでしょうか。イエスにとって、受難と栄光は、と十字架と復活のように一体なのです。受難のなかにこそ栄光が,否、イエスの受難の中にこそ「愛の在り方」をわたしたちに示されたのです。

 受難の初めの言葉は、131節で「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」。そして、その愛の象徴行為として、弟子たちの足を洗われました。これは今日も聖木曜日は洗足日として残っています。受難と死においてイエスは「愛そのものである神」と完全に一つになり、神が愛であることを現し、神もまたイエスとはどういう方かを現しました。ユダの行為によって栄光への道が切り開かれたのです。「栄光を受けた」と訳された言葉は「ドクサゾー」という動詞の過去形で、その受動態の形が使われています。

 「神も人の子によって栄光をお受けになった。32節「神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も人の子に栄光をお与えになる。また「栄光を与える」は、「ドクサゾー」の未来形が使われています。未来形は事が成就することをあらわしています。だから栄光を受けられたイエスと神の繋がりは相互連になります。それによって、イエスは神から栄光を与えられるのです。

 きょうわたしたちはイエス・キリストの福音に出会いましたが、それでもイエスはわたしの行くところにあなた方は来ることができない。と言い、「今しばらくの間、わたしはあなた方と共にいる。」という約束をしてくださいました。特祷で祈りましたように「あなたをまことに知ることは、永遠の命に至る道です。どうかわたしたちが、み子イエス・キリストは道であり、真理であり、命であることを深く知ってみ跡に従い、永遠の命に至る道を絶えず進むことができますように。」主イエスは、わたしたちのために永遠の命への道を備えてくださいます。

 そのために、「互いに愛し合う」というと、教会という信仰共同体の中でキリスト信者同士がお互いを大切にし合うだけなら、「排他的な愛」だと受け取られてしまいます。しかし、当時の時代背景をみると、一致結束しなければならない状態にありました。

 それは、このヨハネ福音書が記させられた状況下におきましては、「イエスを信じる人々」と「イエスを受け入れない世」との間に厳しい対立がありました。

 紀元85年頃、安息日の礼拝で捧げられるシェモーネ・エスレーいう18祈祷文のなかに、クリスチャンを異端として呪う祈りが12番目に加えられました。それを紹介しますと「背教者たちに望みが与えられないように、傲慢なる王国はわれわれの時代に根絶されるように。またナザレ人たちとミーニームは一瞬にして滅び、生命の書から消されて、義しい人々と共に書き入れないように。主なるあなたは、ほむべきかな。傲慢な者たちを卑しめ給う方よ。」という祈りです。

 初代教会のキリスト者は土曜日には近くのシナゴーグで礼拝を守っていました。ところが、この祈祷文よって踏みえを踏まされ、結果としてシナゴーグから追放されました。それはユダヤ社会からの追放でもありました。ヨハネによる福音書はこの追放の後に記させられたもので、厳しい迫害の下で、復活の主イエスへの信仰を守り、信仰共同体を創りあげる、という強い意志が働いています。

 また、教会内部、あるいは周辺においても異端との闘いもありました。内部で団結しなければ潰されてしまうほど厳しい現実が背景にあったと考えられます。

 しかし、イエスの教えは本来、教会内と共同体の外を区別するようなものではなかったはずです。「互いに愛し合う」の「互いに」には、愛は一方通行ではなく、人と人との間にある関係性、深い心のつながりを表すものだからです。

 イエスが言う「わたしがあなたがたを愛したように」の「ように」は単なる模範ではありません。主イエスは、わたしたちの罪を赦すために十字架にかかって愛を示されました。その愛を受けたわたしたちは愛し合うのです。そこに父なる神が働いて下さっています。そして、わたしたちが愛し合うとき、わたしたちがイエスの「弟子であることを、皆が知るようになる」(35)ということがイエスの愛を知って,一人ひとりが証人として遣わされているのです。地域に向かって証ししていくことです。


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