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説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2022年5月1日(復活節第3主日) 

イエス7人の弟子に現れる

ヨハネによる福音書21章1-14
 

 

 きょうの福音は、イエスが弟子たちにご自身の姿を現わされた3回目の記録です。この3回目のティベリアス湖畔は、ガリラヤ湖のことです。これは皇帝ティベリアスにちなんでユダヤ人でない人々によって呼ばれるようになったと言われています。

 ティベリアス湖畔は、ヨハネ6:1-15に記されています。イエスがパンを裂き、パンと魚で五千人を養った場所であります。

 弟子たちは7人いたことが記されていますが、共観福音書のペトロ、トマス。ゼベダイの子など12弟子の名前もありますが、他の弟子二人とガリラヤ出身のナタナエルが出てきます。このナタナエルはイエスに「真のイスラエル人」と呼ばれた人です。ここで注目されている人物です。

 漁師である弟子たちが日常生活をおくっていました。一晩中、漁をしましたが何も獲れなかったということになりました。

 イエスとの関わりをまだ持たない彼らは、岸に立つ人を誰だか知らなかったし、食べ物があるか、と聞かれても、食べる物も持っていませんでした。しかし、イエスに促されて、「網」を舟の右側に投げると、網を引けないほどの大漁に出会いました。不漁から大漁への変化を引き起こしたのは、イエスの言葉でありました。

 この大漁を目の当たりにした弟子たちの中に、その人がイエスだと気づいた弟子がいました。「イエスが愛していたあの弟子」が「主だ」と気づいた直接のきっかけは、5-6節に書かれた大漁でありました。しかし、大漁であるなら、他の弟子たちも見て驚いたはずですが、ペトロも大漁を見ていますが、それだけではイエスであるとは気づいていないのです。ペトロがイエスと分かったのは、この弟子から「主だ」と聞いてからです。イエスと気づいた「あの弟子」はイエスから愛され、受け入れられているという信頼感を持っています。イエスの愛を信じる彼は大漁という出来事に込められた「しるし」を見抜く力を与えられ、岸辺に立って指示を与えた人物の正体に気づくことになりました。 この弟子が「彼は主である」とペトロに告げると、裸であったペトロは「外衣を巻き付け」、湖に飛び込みました。この「外衣を巻き付けた」が新共同訳のように「上着をまとって」の意味であれば、 イエスへの尊敬心を表しているか、あるいはイエスから「立ち去ろう」とした自分の罪深さを恥じたからであろうと思われます。いずれにしても彼は一刻も早く岸辺に向かおうとして湖に飛び込みました。「立ち去る」ペトロから、彼自身を湖に「投じた」ペトロに変わりました。

 しかし、他の弟子たちは「魚のかかった網を引きながら舟で岸に戻ってきました。

 陸から200ぺキス、約90メートルしか離れていなかったのです。ペトロはイエスのもとへと急ぎますが、他の弟子たちの関心は大漁の網に向けられています。陸に上がると、彼らは炭火の上に「食べ物が置かれている」のを見ます。イエスは湖から上がる弟子たちの食事のために、炭火をたいて待っているのでした。

 今とった魚を「運びなさい」とイエスが指示すると、ペトロが真っ先に行動を起こして舟に上が って、網を陸に引き上げました。ペトロは百五十三匹の大きな魚が入った網を引きますが、網は「破れなかった」と書かれている。「百五十三」は当時知られていた魚の種類を表すと、言われています、この数字と考え合わせると、「破れなかった」という表現は宣教活動の豊かな成果を表しているかもしれません。湖に身を「投じた」ペトロはあらゆる魚の入った網を「引っ張る」者になります。

 イエスに「さあ、朝食を取りなさい」と促された弟子たちもイエスに気づき、あえて誰も尋ねようとはしませんでした。このような表現から考えると、網を引きずりながら陸に向かった時点では、彼らはまだ、イエスに気づいていなかったのでしょう。彼らは取れた魚に気を取られ、この出来事が指し示す「しるし」を理解できずにいました。しかし、食事に招かれたとき、もはや尋ねる必要がないほど明確にイエスだと分かったのです。イエスは弟子たちのもとに「来て」、パンを「取り」、 食べ物を「与え」ました。教会が今も行っている祭儀をほのめかしているのは明らかであります。

 最初、弟子たちは岸辺に立っている人がイエスだとは気づきませんでした。イエスを見ても気づかないという弟子たちの経験は、復活したイエスは肉の眼では見ることができないということを示しています。 そして、大漁という奇跡を見ても、その出来事が指し示す神の力に目を向けることがなければ、 復活のイエスに気づくことはできないのです。大漁の奇跡を見て、最初にイエスに気づいたのは、「イエスが愛していたあの弟子」だけです。イエスの愛に信頼するとき、出来事の奥に神の力を見て、復活のイエスに出会うことができるのです。

 ペトロは「主だ」と聞いてイエスに気づきますが、他の弟子たちがはっきりと気づくのは、イエスから「朝食を取りなさい」と招かれたときであります。イエスは湖から上がる弟子たちの食事のために、炭火をたいて待っています。しかも弟子たちが今とった魚を持って来るように指示し、イエスが最初から持っていたパンと魚に加えて、弟子に振る舞うのです。イエスが弟子たちのために準備した食べ物に彼らはイエスの愛を見いだしたのです。

 復活したイエスに出会わせる力は、奇跡的な出来事そのものではありません。イエスが与える愛であります。奇跡はこの愛を示すための「しるし」にすぎません。「しるし」を見ても気づくことのできない弟子たちのために、イエスは食べる物を準備し、命を養い守る神の愛を知らせる。イエスが「与える」パンを食べ、その愛に心が向かうとき、復活したイエスがそこにいるのです。礼拝とサクラメントを通して復活の主に出会うのです。十字架の贖いのゆえに永遠の命が与えられていることを知ることができるのです。


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