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説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2022年4月24日(復活節第2主日) 

見ないで信じる人は幸いである

ヨハネによる福音書20章19-31
 

 

 今日選ばれています福音書の箇所の前半の19節〜23節は、聖霊降臨日の日課になっています。そして、復活後の大いなる50日として、第2、第3主日は「復活した主イエスと弟子たちとの出会い」の物語、第4〜第6主日は「復活した主イエスは目に見ることはできないが、今もわたしたちとともにいてくださる」とはどういうことかを示すヨハネ福音書の箇所が選ばれています。昇天後の第7主日は、嘆願のようにも取れます。天地創造の前から存在した主イエスと一つになることが主要なテーマです。そして復活から50日目には聖霊降臨日を迎えることになります。

 復活節第2主日の福音は、「週の初めの日の夕方」と「八日の後」にイエスが弟子たちに姿を現したヨハネ福音書の20章の箇所です。きょうは、24節以下のトマスについてのところからご一緒にみていきましょう。

 24節に、「12人のひとりでディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった(24)のです。そこで弟子たちが、週の初めの日の出来事を話しました。「わたしたちは、主を見た」というと、トマスは「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」(25節)と言っています。トマスはみんなと離れていたのです。みんなと一緒にいなかったのは他の弟子にもありました。ルカ24章のエマオへの道の途上にあった弟子たちも他の弟子たちから離れていきました。イエスの死という出来事は、弟子たちの人間関係を壊して離散してしまうような出来事でもありました。これをトマス自身の立場で考えてみますと、トマスは、最後までイエスに従うという決意をしていましたが、そうできなかった自分自身に失望して、また他の弟子たちにも失望して、弟子たちの集いから遠ざかって、精神的にさまよっていたのかも知れません。

 しかし、このトマスのところにも、主イエスが生きているという知らせが来たのでしょうか。トマスにとって「主を見た」という他の弟子の言葉は、とても信じられない言葉でありました。トマスは半信半疑だったでしょう。

 マグダラのマリアが復活のイエスを弟子たちに証言した言葉と同じ「わたしたちは主を見た」(25節)という言葉が繰り返されています。最初に聞いた弟子たちがマリアの証言を素直に受け入れることができませんでした。

 また、「八日の後に」、弟子たちは、また家の中にいました。そこに「トマスも一緒にいた」のです。やがて、トマスは弟子たちの集いの中で、弟子たちの真ん中にいるイエスに出会うことになるのです。イエスと同時代の信仰深いとされるユダヤ人たちですら、トマスに代表されるように実証的な証明を要求しているのです。では、なぜトマスが変わったのでしょうか。イエスは、トマスに「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(27節)と呼びかけられました。イエスは、実証的な次元での問いかけをなさいました。

 ここでトマスは、自分の罪が他ならぬイエスを十字架に釘付けしたことを示されたのです。それと同時に主の十字架が逆に自分の罪の赦しであることを示されたのです。この時トマスは、「わたしの主、わたしの神よ」(28節)と告白しました。イエスは、トマスに「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」といいました。見ないで信じる信仰について「幸いである」と、トマスを信じる者に変えてくださいました。これは復活の信仰についての在り方について言及されているのではないでしょうか。この幸いにわたしたちも与っているのです。

 「見ないのに信じる人は、幸いである」(29)という言葉は、ひとりトマスに限らず、すべての弟子たち、また、のちのキリスト教の信者のすべての人に向けられた祝福の言葉だと言えるでしょう。そんな中でわたしたちはどこで、どのようにして復活の主イエスに出会うことができるでしょうか。出会っているでしょうか。使徒たちの後の時代のすべてのキリスト教の信者は、復活の現場に立ち会っていない「見ないで信じている者」だからです。

 現代のわたしたちにとって、イエスの復活を信じるとはどういうことでしょうか。それは「主イエスと神とのつながりは死によって断ち切られませんでした。また主イエスとわたしたちとのつながりも死によって断ち切られることがない」と信じることです。トマスのように、人は「目に見えないものは信じない」と言い張ることもできるでしょう。しかし、「復活を信じること」は単なる認識や知的興味の問題ではなく、トマスが信じる者に変えられ、生き方の方向が変えられましたように、わたしたちにとっても生き方の根幹にかかわることなのです。「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるため(31)です。ヨハネによる福音はいつも、すでに信じているわたしたちをイエスとのより確かな交わりへといざなってくださいます。

 私たちが聖餐式を行なう時、いつもイエスはその真ん中に立ち、「あなた方に平和があるように」と、息を吹きかけ、新たな命を与えてくださいます。

 十字架によって、私たちの罪を贖ってくださったイエスは、復活して、死に打ち勝ち、私たちに平和をもたらいて下さいました。


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