header
説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2022年4月10日(復活前主日) 

イエスを通して父と一体になる

ルカによる福音書23章1-49
 

 

 イエスは弟子たちとともに過越の食事をし、オリーブ山で祈った後、逮捕され、ユダヤの最高法院で裁判を受けました。その後、ローマ総督ピラトのもとに連れて行かれるところから、きょうの23章が始まります。ピラトやヘロデから尋問を受け、死刑の判決を下され、十字架上で息を引き取るイエスの姿を述べています。

 ルカによる福音書の十字架に関する場面は、マルコ福音書を基にして、いくつかのエピソードを付加しています。その一つは28-31節です。イエスのために泣いているエルサレムの女性たちを逆に慰めています

 29-30節は、大きな災いを予告しています。子どもがいれば、自分の苦しみだけでなく、自分の子どもについても苦しまなければならないので、子どもがいないほうがましだ、と思わされます。それは自然災害による死よりも大きな苦しみだ、というのです。

 次にルカだけが伝えるのは、34節の祈りです。「そのとき、イエスは言われた。『父よ、彼らをおゆるしください。自分が何をしているのか知らないのです』」この箇所は有力な写本で欠落している部分ですので、新共同訳聖書では〔 〕の中に入れられています。しかし、わたしは、赦しの視点からは非常に重要な言葉であると、受け止めてきました。

 40-43節の、一緒に十字架につけられた犯罪人のうち、一人が回心してイエスに救いを願う話もルカだけが伝えるものです。「あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」といった、この人はイエスを「キリスト」として信じ、イエスの救いに与ることを願っています。するとイエスは「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」といって約束します。

 ルカ福音書の中で「今日」という言葉は、「救いが今実現している」ことを強調する言葉です。「回心した今」、「苦しみの中にもイエスがとともにいる今」今、この時こそが救いの時だと言えるのです。

 昼の12時から3時まで、太陽は働きをやめ、全地は闇に包まれます。

 しかしこの闇は、イエスに対する闇の勝利を意味するものではない。むしろ闇は神の介入を表す象徴であります。

 神によって「裂かれた」神殿の幕は、最も大事な至聖所とその手前の部分を仕切っていた幕だと 考えられています。旧約の時代には大祭司だけが年に一度だけこの幕を通って至聖所に入ることができました。その幕が裂かれたのは、大祭司だけでなく、すべての人が神にまみえるために至聖所に入ることができるようになるためです。イエスの死は、神と民の間を隔てていた幕を取り外す出来事でした。

 イエスは大きな声で「父よ、私の霊を御手にゆだねます」と叫びます。午後3時です。ユダヤ人の夕方の祈りの時間であります。イエスの最後の言葉として引用されているのは、詩編は316節です。だからこのイエスの最期の姿を見て、「本当にこの人は正しい人であった」と百人隊長が証言したのでした。

 続いて登場する群衆は、イエスを十字架につけよと叫んだ人々です。しかし彼らは「胸を打ちながら帰って行った」。この方向転換は、彼らの生き方の転換をも示しています。「胸を打つ」とは痛悔を表す動作だからです。わたしたちも懺悔のとき3度胸を打つ習慣はここからきています。また「一緒について来た女性たち」は遠くからこの出来事を見ていました。彼らは、イエスの死が神と民の関わりを確実に変えてゆくことの証人でもあります。直接に目撃することのできない後の世のキリスト者に代わって出来事を「見た」証人であります。

 ルカによる福音書の受難のイエスも無力で苦しむ人として描かれていますが、そのイエスが最後の最後まで人々を愛し続け、神に信頼し続けた姿を伝えています。「父よ、わたしの霊を御手に委ねます」と神に全き信頼を置きます。しかし、はたから見れば、十字架のイエスの姿は、神からも人からも捨てられた姿にしか見えないでしょう。でも、イエスはその中で愛によって人とのつながり、信頼によって神とのつながりを最後の最後まで貫き通したのです。そのイエスの歩みは、決して肉体の死で終わりませんでした。死んで、甦らされたイエスと神との関係、イエスと人々との関係は完成したのです。成し遂げられたのです。だからこのイエスの最期の姿を見て、「本当にこの人は正しい人であった」と百人隊長が証言したのでした。

 このルカによる福音書が伝える十字架のイエスの姿はわたしたちがどう受け止めるのでしょうか。イエスはすべてを奪われたかのように見えても、それでも最期まで人を愛することはできるのです。それでも最後まで神に信頼して祈り続けることはできるのです。

 わたしたちは、何もかも失ってしまったとき、また、年を重ねて、自分では何もすることができなくなってしまう状況に陥るときも、それでもまだできることがある、生きなさい、希望を持ちなさい、と十字架のイエスは語りかけているのではないでしょうか。どんな状態であっても存在そのものに意味があるとおっしゃる十字架のイエスの言葉を恵みとして、諦めないで、「今日あなたは御国にいる」というみ言葉に希望をもって歩んで行きたいと思います。


このページトップ」へ戻る