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説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2022年4月3日(大斎節第5主日) 

ぶどう園の農夫

ルカによる福音書20章9-19
 

 

 この話は、イエスは、祭司長たちや律法学者たちのいるところで、彼らに当てつけとして、民衆に向かって譬えを語り出されます。

 この譬えは、初代教会が伝承されるうちに寓喩的に読まれるようになったと考えられます。きょうは寓喩的解釈によって説教をしたいと思います。週報裏面の福音書概要は、そういう概説にしていません。寓喩と言いますのは、話の一つひとつが、これは誰になぞらえているとか、これは何にたとえているという構造になっている形の話です。19節に「律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけて、この譬を話されたと気づいたので」とあります。この譬え、寓喩の中で自分たちが何になぞらえられており、それは、どういう人物であると言われているのか、気が付いたのです。ある人が、神さまです。この人が造ったぶどう園は、神の民であるイスラエルです。このぶどう園を預けられている農夫たちが、祭司長、律法学者、長老たちです。この譬えを見ていきましょう。ある人が、神様が、ぶどう園を造って、農夫たちに貸して、長い旅に出ます。これを言い換えると、神さまがご自身の民イスラエルを召し出して、この民の責任者である祭司長や律法学者、そして長老たちにこの民をお委ねになりました。この当時、大地主の多くは大都会や外国に住んでいたと言われています。そして、レビ1923-25節の規定によれば、果樹は植えてから3年間は無割礼のものとして、それを食べてはなりませんでした。4年目にはすべての実は聖なるものとなり、主への賛美の献げものになりました。5年目に初めて実を食べることが許されるのです。5年目に収穫を手にすることができるまで、持ち主が農夫たちの給料を始めとして、すべての経費を負担します。こういった当時の状況をこの譬え話を聞いていた人たちは思い浮かべたのでしょう。 収穫の時期が来たので、ぶどう園の持ち主は、僕を送って、収穫の分け前を拠出させようとしました。これを言い換えてみますと、神さまはご自身の民イスラエルを神に献げるように、ご自身の僕である預言者をお遣わしになりました。ところが、農夫たちはその僕を袋だたきにし、侮辱して何も持たせないで帰らせました。これは言い換えますと、民の責任者である祭司長、律法学者、そして長老たちは、神が遣わされた預言者を拒絶し、預言者の言葉に従いませんでした。神は2回、3回と預言者を遣わしましたが、結果は変わりませんでした。このことは旧約でも語られています。エレミヤ書725-26節では「わたしはわたしのしもべである預言者たちを常に繰り返し、お前たちに遣わした。それでも、わたしに聞き従わず、耳を傾けず、かえって、うなじを固くし、先祖よりも悪いものになった。」と書かれています。最後にぶどう園の持ち主は、自分の愛する子を遣わしたら敬ってくれるだろう、と考え、愛する息子を遣わします。これは、神さまがひとり子イエス・キリストを世にお遣わしになったことを表します。ところが、農夫たちは主人の息子を見ると、『これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産はわれわれのものになる』と互に話し合い、彼をぶどう園の外に追い出して殺してしまいました。これは、イエスに対する祭司長、律法学者、そして長老たちの思いを表すものです。これから起こる十字架の出来事を指し示すものです。そのとき、ぶどう園の主人は、彼らをどうするでしょうか。彼は出てきて、この農夫たちを殺し、ぶどう園を他の人々に与えるでしょうか。

 この譬え話を聞いていた人々は、イエスに向かって「そんなことがあってはなりません」すなわち「農夫たちのような不正な行いがあってはならない」と抗議しました。すると、イエスは、彼らを見つめて言われました。「それでは、『家を建てる者の捨てた石 これが隅の親石になった』と書いてあるのは、どういう意味か。すべてその石の上に落ちる者は誰でも打ち砕かれ、その石が誰かの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう」。引用されているのは、詩編11822です。祈祷書の詩編では、隅のかしら石と訳されています。「隅のかしら石」というのは、石造りの家を支える要の石です。壁と壁が合わさる隅の土台となる石であり、上にあって壁が揺るがぬように重しをかける石です。この建築の要である隅のかしら石は、家造りらの捨てた石であったというのです。家造りの専門家、つまり祭司長や律法学者、そして長老たちが不要のものとして捨てようとしているイエス・キリストこそ、神によって隅のかしら石とされたのです。そして、イエス・キリストによって、すべての人は裁かれると言うのです。律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけて、この譬を話されたと気づいた」のも当然のことだと思われます。このとき、祭司長や律法学者たちは、あからさまに非難されたと思い、イエスを手にかけよう、イエスを殺そうと思いましたが、民衆を恐れました。彼らは神を畏れるのではなく、民衆の評判、反応を恐れたのです。彼らはイエスの姿を見ました。肉声も聞きました。彼ら自身に向かって語られるイエスの教えを聞きました。しかし、彼らは悔い改めませんでした。傲慢な肉の目や耳でイエスを知ることはできません。イエスを十字架にかけてしまいます。聖霊によって清められ、信仰の目、信仰の耳が開かれるのでなければ、イエスを知ることはできません。イエスは今も、慈しみをもってわたしたちを見つめていてくださいます。そして、40日間断食したのち、空腹を覚えられた時、試みる者が近づいて来て、言いました。「神の子なら石がパンになるように命じたらどうか」と、イエスは答えて言いました。「人はパンのみによりて、生きるにあらず、神の口から出る一つひとつの言葉で生きる」と誘惑を跳ねのけました。私たちも隅の頭石となったイエスに倣って神のみ言葉をしっかりと受け止めて、み言葉の中を歩んで行きましょう。あなたがたがどこに行ってもあなたの神、主がともにおられます。


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